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読書ノート補遺1:プチ解題

 フーコー「読書ノート」シリーズの補遺として、まずは解説と釈明……保留付きですが「読書ノート」そのものは部分的に私の作品だとして、解題を書こうと思います。補遺2では「読書ノート」の意義を整理します。

はじめに

 ということで、この補遺1では、中身の解説も少ししたいのですが、その前にお伝えしておかなければいけない事柄からですね。ただ色々……ほんとうに色々あって、とりあえず、つらつら述べさせてください。
 最初に――、フーコーのテクスト読解として、私の整理、補足、注釈、これらが、正しいと思わないことです。少なくとも、研究者や専門家の不確かさよりも不確かであることは間違いありません。私自身、あれら……補足やこの補遺など合わせれば、おおよそ30回ですか……が、読解的な正しさを持っているよ、ということは思っていないということです。思っているのは単純に、相互批判的な意見交換が欲しいということですから、いかなるコメントも末永く歓迎致します。

放棄に始まり放棄で終わる

最後の3回の講義について

 最終回の提示の仕方に関わることです。凄まじくいまさらですが、フーコーの講義は一日に2時限あります。1限は(基本的に)2時間で、間には、ほとんどトイレ休憩ぐらいの時間しか空いていません。したがって、基本的には同じ日付の講義は、一つのまとまりを持つものなんです。ところが、しばしば、1時限目と2時限目でテーマが変わるということがあり、読書ノートでは、テーマ重視で分割しました(もっと言えば、時限に限らず分割もしています)。
 こういう情報をお知らせしの上で、近々の問題として、私が最後の3回分(一日と半分)の講義を割愛したのはなぜか、を説明します。それは……ああ、その前にまったくの私事に少しだけ触れさせてください。
 「つぶやき」やTwitterで、知っている人は知っていると思いますが、PCの自作に(久しぶりに)トライし、見事に爆散しました。最高のクリスマスでしたよ。ただ、お伝えしたいのは、そのせいで、例えばデータが吹っ飛んだとか、面倒になって終わらせたとかではない、ということです。例の「最終回」はトライする前に既に出来上がっていたからです。
 さて、話を戻すと、この読書ノートは、実は、一番最初の講義(カントの解釈や「啓蒙」について)を割愛/放棄したところから始まっています。そして、結果的に最後の講義は割愛/放棄されました。

3月21日(第二時限)

 まず、3月21日の第二時限について。この講義は、第一時限の内容(読書ノート27回目)を、文献学的に補足するものでした。なんといっても、キュニコスに関するテクストは残っていないか、間接的に言及されるかたちでしか残っていません。そしてこの講義では、ストア主義のテクストから、キュニコスの特徴を拾い上げていくのですが、必然的に、それはストア主義の解釈の歪みが含まれています。フーコーは当然ながら、どこがストア主義的屈折なのかを正確に標定しながら示してくれるのですが、明らかになるキュニコスの特徴は、ほぼ27回目で述べられていること、その繰り返しです。むしろ、歪みを含み、それを濾すという手間がある分、情報として過剰と判断して、それゆえ割愛したということです。
 一つ、トピックスとして。キュニコスは人類の悪徳と闘うわけですが、それはいかなる公的活動よりも高い価値を(ストア派からも)与えられています。キュニコスは、一つの都市国家の枠組みのなかで――あるいは一つの帝国の枠組みのなかでとすら言えるかもしれません――財政や軍事について語るわけではありません。すべての人間たちに対して、語ること、これこそ本当の政治的活動ポリテウエスタイであり、語の真の意味でのポリテイアの役目を果たす者であることが強調されます。つまりは、全世界の統治……フーコーはこの言葉を使いませんが、シンプルなコスモポリタン、それがキュニコスであり、キュニコスの実践です。

3月28日(第一時限〜第二時限)

 私はおそらく来年――まだ何も決めておらずどうなるかわからないので受け合うことはできませんが――このテーマ【キリスト教的モデルとの近さ】についての探求を少々継続することになるでしょう。私はおそらく、生きる技法について、生の形式としての哲学について、真理との関係における修練=修徳主義アセテイスムについての歴史研究を、まさしく古代哲学以後の時代、キリスト教の時代に関して続けることになるでしょう。

 もちろん、彼はそれを続けることはできません。この部分を明確に、直接的に引き継いだのは、アガンベンです。アガンベンの「ホモ・サケル」シリーズは……例えば、「例外状態」の特権化など、どちらかというとフーコーの過去のテーマ(生権力、生政治)から出発しているように見えますし、実際そうなのですが、シリーズの最後の二冊――『いと高き貧しさ』と『身体の使用』では、まさにこの部分が「続けられ」、アガンベンとしての結論が提示されます。ところが、提示されると同時に、「ホモ・サケル」シリーズが放棄される地点でもあります。(アガンベンの哲学はその後も続きます)
 この話は、長くなるのでポイントだけになりますが、フーコーの遺した哲学的テーマについて、アガンベンはフーコーができなかったやり方で、部分的にですがきちんと結論まで持っていきました(そしてそこにこそ、バンヴェニストの「中動態」の概念が挿入されます)。しかし、まさにその地点……つまりフーコーの一歩先に足が踏み出されたかのように思われる、まさにその地点で、アガンベンの主要な研究が放棄されるのです。
 ……まったく、私たちはどうしたらいいんでしょうね。
 さて、(最後の日の講義における)他の諸情報、パレーシアの言葉の意味の変遷などについては、本筋からは過剰な情報……というよりもフーコーに内在的にいうなら、それについて詳しく知りたいなら、講義集成の10や11に戻ってみてね、というものとなっています。
 さすがに、私は戻って(読書ノートを)続けませんよ。なぜなら目の前に、かつての、そしてこれからのメインPCの残骸が広がっているからです。

語られなかったテクスト

 私は、上述の3回分の講義を割愛し、最終回として、書かれただけ、語られなかったテクストの内容を選択しました。私としてはあの最終回には、「読書ノート」の結末に、ある意味でのふさわしさ、そしてある意味での(おそらくは語られていた場合、そうなっていなかったのではないかと思われるような)不十分さがあると思っています。

読解の総括

 総括といっても、できるだけ手短に済ませたいと思います。

最終回の内容について

 ざっくりいって、ソクラテスのパレーシアを起源にして、プラトン(主義)が継承した道と、キュニコス(主義)が継承した道が示されています。ただし、それらは、別々だったというよりは、むしろいつも混ざり合っていたとも書かれます。
 ざっくりにざっくりを重ね合わすことにはなりますが、ようするに、プラトンの道は形而上学としての哲学の道で、マテーマタ(学ばれることの総体)……だから学校に、その場を得るような哲学です。他方、キュニコスの道は、アスケーシス(修練)……生の形式であり、それゆえ学校には居場所がありません。しかし、どちらも、パレーシアをいわば扇の要にしながら、真/真理に関わっています。そして強調されるのは真なるものは、プラトンの道の場合、他界。キュニコスの道の場合、他性。そこにしかないということです。
 「真理、それは決して、同じものではない」と書かれるとき、「同じもの」とは、現状と同じ、広く受け入れられている常識や慣習と同じ、(主権として構成された今の)自分と同じ、そういうものだと思います。そういうもの「ではない」というのは、キュニコスの側は、すんなり分かるとして、プラトンの側でもそのように示されているのは、(しばしば伝統的な)哲学がいかに普遍的な真理に目を向けていたとしても、それが、まさに真理と示されうるのは、「同じものではない」からだ、ということです。
 ちょっと、レベルの低い補足をすると、したがって、フーコーの哲学を単なる形而上学批判の哲学と読むことは、間違っているし、いくら統治をテーマにしたからといって、いわゆる政治哲学として読むことも、(間違いではありませんが)ズレています。もし、政治がありうるとしても、それは上述の「語の真の意味でのポリテイアの役目を果たす」……そのスケールの政治です。

26回目・27回目の内容について

 最終回の内容は、よくまとまっています。パレーシアや勇気というものの位置づけも明らかです。私がテクストとした二冊(講義集成12・13)の出発点との齟齬もありません。
 しかし、私は、本当の最終回は3月21日の講義(26回目、27回目)であったと、思っています。
 キュニコスを完璧に特徴づける――パラカラッティン・ト・ノミスマ。ノモス――基準、法、常識、決まりごと、ノーマルとされていること、(ノルマという意味で)目指されているもの、その真偽鑑定を行うこと。そして、(ほとんどすべてがそうである)偽であるものを「反転」すること。フーコーのテクストでは、「汝自らを知れ」との結びつけのために、「汝のノミスマを変質せよ」ともありますが、ここでは、直接的には汝(自分、自己)は後景に退いているように思えました。真なるものに結びついたパレーシア、それは(嘘も方便と全く逆に)パレーシアも方便のように、状況で使い分けられるものです。なぜなら、その真/パレーシアだって、真偽を吟味される対象だからです。
 そしてここにこそ、最も大きなスケールでの「自己と他者の統治」があり、プシュケーではなく、ビオスの哲学があります。フーコーは、(やや早急に)そこに現代的な「戦闘性」の諸特徴も加えるのですが、それは一旦保留したとして、それでも、キュニコスの道に大きく比重が置かれていることは、誰もが感じることでしょう。
 つまり、書かれたテクスト(最終回)では、いわば冷静に、伝統的哲学に通じる道とキュニコスの道が「対置」されていましたが、語られた講義では、キュニコスの側に比重が大きく偏っていたということです。それは、講義の流れのなかで(そのときのスポットして)のことだろう……と思われるかもしれません。おそらく、そうです。しかし、フーコーは、そのような「流れ」――つまり自分の講義に先があることを(引用した発言のように)前提にしていたでしょうか。それよりもむしろ、(実際の体調不良の只中にあって)死による「終了」を前提にしてたのではないでしょうか。その時に、哲学のあり方の極致を――文献による実証すら後回しにして、示したんだ。……私なら、このように考えます。
 いわゆる、秘教的で膨大な素養を通してしか辿り着けないものとしての極致ではなく、万人の足元にある、簡素で隠蔽されていない、そういう哲学。そこでの(自己の享受に対置される)「自己の放棄のある種の形態」。それにもかかわらず、宣言される「王」。王ゆえの責務としての他者への専心。……これらを私は、読解の総括として提示します。

読書ノートの使い方

 まぁ、固い話はおいておいて、約30回の読書ノートについて、ですね。もっとも、クリエイターの皆さんには釈迦に説法な内容ではあります。ようするに、好きに使ってください。何が正しいとかは、ないです。
 もし、なんらかの方向性がほしいということなら、正しいかどうかより、フーコーがどういう意図で言っているかに気を使ってみてください。この読書ノートでは、内容の正確性を犠牲にしてまで、その「意図」を取り違えないように、最大限の注意を払ったつもりです。
 あと……(さっき書いたことといきなり逆のことを言うようですが)正確性を失いすぎないために、いわゆる難しい言葉――なんでしょう……例えば「無媒介的」とかですか? こういう言葉は残しているんですが、ビビらなくていいです。だって、無媒介って、直につながっている程度の意味ですから。極論、飛ばして読んでもいいですしね。

 不十分かもしれませんが、プチ解題は以上です。

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