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ヘーゲル:『小論理学』

ヘーゲルという人物を短く説明するのはとても難しいですね。例えば、カントが炎柱だったとして、ヘーゲルは始まりの呼吸の使い手(縁壱)だ……というのは実は弟子たちが盛ったイメージであり、実際は炭治郎といったところでしょうか。

読むならこれ!『小論理学』

 なぜこの本なのかの理由の前に、なぜ『精神現象学』ではないのかですが、精神現象学は処女作です。ただ、週刊誌の連載みたいに書かれたものです。その人の哲学の中身が手軽に読める、を目標に紹介する私としては、精神現象学は推せません。いくら訳が良くなっても、散らかっているものがなおるわけではありませんからね。
 ま、精神現象学だったら他に良い紹介者がいくらでもいるから、というのが本音ですけど。

小論理学の位置づけ

 ただ、この本の位置づけは説明しないといけません。面倒ですが、大事なことなんです。
 まず、なんで「小」なのということですが、この本とは別に『論理学』という本を出しています(通例、大論理学といわれるものです)。それとは全く別物だ、ということです。
 次に、小論理学は『エンチクロペディー』という本の第一部に該当します。エンチクロペディーとカタカナの名前ですが、意味は(哲学的観点からの)百科全書といったところです。この時期、百科全書を書くのが流行っていたんですよ。で、その中身は、実質的には本というより、(ヘーゲルが先生として使う)大学の授業のレジュメ集です。したがって、これを使って講義をしたわけですが、そこで使った講義用のノートや生徒(といっても教授レベルの人たち)がメモったヘーゲルの口頭の補足なども残っています。小論理学は、エンチクロペディーの第一部だけを切り離しただけではなくて、このノートや補足を加えて、読者がより理解しやすくまとめられたものです。

ものを考えるときに使う項目についての解説

 最後に、論理学についてですが、私たちがイメージする学問分野としての論理学ではないです。「ものの考え方」という意味で、論理学なんです。中身としては(抽象的に考える際の)項目――質とか量とか、本質とか現象とか、主観とか客観とか、哲学や後の心理学でいちいち説明されないような基本的な項目について一つずつ解説していってる感じです。

時代背景

哲学界隈

 カント哲学が流行ってました。ヴィーコを取り上げたときの背景としてデカルト哲学が流行っていたと書きましたが、あれと同じようなものです。ま、今回はあまり重要なことではありません。

知識人界隈

 もうちょっと広く、知識人というか思想家たちの流行り、こっちの方が重要です。「シュトゥルム・ウント・ドラング」って、なんとなく聞いたことありませんか。嵐と衝動という意味のドイツ語ですが、これは、それまではデカルト的(機械論的)なものとして自然を捉えたり、その自然に対するかたちで理性を捉えてきていたわけですけど、実際の自然(嵐)や人間の心(衝動)にはすばらしいものがあるよねって感じの文学運動と思ってください。
 そいつの延長線上で有機体とか有機的ということが、キーワードになってた時期でした。ただ、この言葉についてサラッと流すと余計わからなくなります。

オーガニックとは

 有機って言葉は今でも普通に使いますよね。オーガニック野菜というと、化学肥料とかを使っていない野菜ということです。でも、「自然の」という意味ではないことは、なんとなく感じているでしょう。自然だったらナチュラルでいいわけですから。あと、理系の人なら、有機物とは炭素を含んでいるもののことで、逆に炭素を含んでいないものを無機物というのを思い浮かべるかもしれません。
 まず、語源ですが、オルガンです。え? と思うかもしれませんが本当です。といっても、小学校の音楽会で(私の場合)無理やり担当させられた、あの忌まわしきオルガンではなく、パイプオルガンですね。大きな教会とかにあるやつ、あれです。ようするに、ごちゃごちゃしていて、複雑な状態をオーガニックといったんです。だから、複雑な人の集まりをオーガナイゼーション(組織)というんですね。
 ところが、シュトゥルム・ウント・ドラングの生命賛美の影響で、生命体、もっというと人体の特徴は有機性だというように、言葉のニュアンスが微妙に変化します。つまり、人間は(解剖などで)分解してしまうと、つなげ直しても(通常)生き返りません。これは全体を部分に分けたとき、全ての部分の足し算よりも、全体には特別な生命力のようなものがある。その特徴を有機性といったんです。確かに人体のような全体は複雑なものですから、そのニュアンスも残っているんですが、そこに生命力のようなものが加わったんですね。ちょっとの違いが、正反対の意味に変わるわけです。もともとは複雑ではあるものの機械(パイプオルガン)に使われていた言葉が、生命体の特徴という意味を持ったんですね。

部分と全体

 脇道にそれているようですが、ここが大事なところです。このような意味での有機性において、部分と全体、どっちが大事にされますか。はい。当然、全体です。逆にいえば、部分は軽視されます。
 そして、ヘーゲルは国家についてもこの有機体のイメージを当てはめます。国家を構成している部分は個人です。もうお分かりですね。大事にされるのは全体である国家の方で、個人は(人の臓器のように)決められた役割を果たすことが大事で、そっから外れることは悪いことと考えられます。
 有機体については、後でもう一度触れます。

国家・政治的背景

 ヘーゲルの時代、ドイツは統一国家ではなくて、領邦国家(集合体)でした。具体的には、通貨が違ったり、郵便制度が場所によって違ったりしたわけです。で、ヘーゲルは断然統一国家(組織された全体)を推します。
 ただし、これは現実的には最も力の強かったプロイセンを応援することですし、民族的な統一を応援することにもなるので、具体的な言動としては、いわゆるナショナリストということです。

どんな人物

義務をブッチ

 神学校で勉強しました。そこの卒業生は必ず聖職に就かないといけない決まりがありましたが、余裕でブッチします。しばらく家庭教師をして、のちに大学教授になります。ヘーゲルとしては、キリスト教は形式的な(静的な)宗教にうつったんでしょう。むしろ自然(ここではそのままの意味です。つまり、獣や植物)こそ宗教だ、と書いています。

プロイセン肝いりの大学の人気教授

 どこの大学教授かですが、ベルリン大学です。正式名称ベルリン、フリードリヒ・ヴィルヘルム大学。プロイセンの国王にちなんだ、当時の最高学府です。というより、(まだ統一を実現できていない)国家の威信を賭けた大学ですね。そして、哲学は学問一般の中心に位置づけられました。その哲学教授なわけですから、ナショナリスト的な発言もしますわな。一年だけですが、学長もしています。
 授業は大人気だったそうです。実際にシャープかつ面白い講義だったんでしょう。多くの受講生が押し寄せたそうです。ちなみに、ショーペンハウアーは、ヘーゲルに対抗するためにわざわざ同じ時間に授業を設定したんですが、受講生がおそろしく少なく、完敗したというのは有名な話です。

お金にはけっこう困っていた

 まぁ、醜聞というか、下宿の女将さんに子どもを産ませてしまうということもありましたが、その後世帯を持っています。決して裕福な暮らしをしたわけではないようです。例えば、先に紹介した大論理学ですが、あれは、原稿料が原稿の「量」に比例する契約だったために、水増しした(余計な話でページ数を稼いだ)という話も残っています。読者からしたらいい迷惑ですね。ま、読まなければいいんですけど。
 61歳と当時の思想家たちとの比較でも若くして亡くなったのは、コレラです。獪岳に倒されたといったところでしょう。

現代的評価:★★

読んで、意味が理解できるということはいいことです。ヘーゲル哲学が後世に残した影響は多大ですが、ヘーゲル哲学だけを見たときに、現代的意義はよくて★2でしょう。

それまでの哲学全部入り

 カントはいったん置きます。ちらっと書きましたが、国家についてなど、プラトンの国家イメージが下敷きといって間違いありません。一方で、百科全書を書くぐらいですから、アリストテレス的な側面もあります。スピノザはヘーゲル自身がよく引用しています。そういう意味でザ・哲学を作り上げた人。のように思えます。

カントとの違い

 細かくは紹介できませんが、ざっくりいうと、カントは自然科学の成果を基にして哲学を構築しました。ヘーゲルの場合、それにあたるのは何だったかというと、今でいうマクロ経済学です。具体的にはアダム・スミスで、神の見えざる手は有名ですが、あれのポイントは、個人個人は自分の利益で動いていても、全体としては最適なところで需給が落ち着く、というところです。「全体としては」のところが、有機体の話とつながるわけですね。
 そうすると、違いはどうなるでしょう。カントは、個人の理性や倫理感を重視しました。そして理想、あるいは完璧という静的な哲学です。ヘーゲルにとっては、むしろ個人個人は間違いもするし、人の役に立つこともすれば、害をなすこともある。でも、全体としては、いろんな経緯がありながらも、落ち着くべきところに落ち着くとなります。「いろんな経緯がありながら」というところがポイントで、ヘーゲルの哲学はプロセスとか歴史が大事にされるんですね。そういう意味で、動的なんです。

実際その1

 こういうふうに書くと、いいことのように思うかもしれませんが、実際は、単なる現状肯定になってしまうんですよ。だって、そのうち落ち着くべきところに落ち着くだろ、という考えでは課題の解決は成り行き任せになりますよ。そういう理屈なんです。カントの場合は、理想がガッチリあり、それと現状とのギャップを埋めよう、という理屈になります。
 あと、長い物には巻かれろ、ともなります。(一番強い)権力に協力的だったり、ゴマ擦ったりということになるんです。

実際その2

 ヘーゲルの哲学体系は円環をなします。つまりどこかに端緒があるわけではなく、論理学→自然哲学→精神哲学→論理学というように円になっているんですね。エンチクロペディーがそうです。
 が、それは、ヘーゲルの死後に同僚や弟子たちがつくった虚像だったということが明らかになっています。実際は、体系なんてガタガタで、講義のメモも、マジでメモ程度で文章になっていないものでした。それを修正しつつ、大哲学者を演出させられたわけですね。ただ、これが分かったのは最近です。だから、ヘーゲル哲学の影響を受けたりヘーゲル批判から始めたような今後紹介する哲学者たちは、大哲学者ヘーゲルが事実だと思っていたということになります。

さいごに

 とはいえ、カントが哲学を自然科学の補助のようにしてしまったものを、ベルリン大学の意向があったとはいえ、ひっくり返して、偉大な哲学にまでもっていったのは事実です。しかし、それは、哲学の終わりでもありました。(実際は演出でしたが)完成された哲学というのは、それ自体はもう進化しません。そこで終わりです。これまでの哲学の集大成だからこそ、終わりなのです。この後は、ヘーゲル哲学を理論的に尖らせていく(ラディカルにするといいます)袋小路と、ヘーゲル哲学を前提にしない哲学しか残されていません。
 ちょっと、長くなってしまって反省しています。でも逆に、ヘーゲルの解説で弁証法に触れないってすごくないですか。わざわざ私がしなくてもいいかなとおもっただけですけど。

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