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[読書ノート]15回目 3月2日の講義(第二時限)

講義集成12 1982-83年度 402頁~415頁

今回のまとめ

  • 言説が真実の言説であるためには真実があらかじめ与えられていてはダメ

  • ぶっちゃけ説得のためには弁論術の技芸は大事

  • それでも哲学者は唯一のパレーシアスト

 プラトンにおいて哲学の言説と弁論術の言説の対立が述べられたものとして『弁明』は【哲学の言説を】実践的な言説と特徴づけ、『パイドロス』では、哲学の【特有の】テクネーが現れてくる

『パイドロス』の読解

良い言説と悪い言説の区別

 『パイドロス』で(愛や真実の愛といったテーマについて)対話が重ねされてゆき、それが行き着く先は、直接的に言語の技芸という問題、そしてロゴス〔言語〕に対する本当のテクネー〔技術〕という問題についての考察である。
 最初に確認しておくべきことは、ここでのロゴスという語は、書かれた言説も口で述べる言説も共に指すということ(その区別は必要ではない)。重要なのは(書かれた言説と生き生きとしたロゴスの違いでなく)、良い言説と悪い言説はどのように決定されるのか、ということ。
 (その区別について)パイドロスが示唆するのは、言説を述べる者が、自分が語っている事柄に関する真実についての認識を持っていること。一見すると満足のゆく解決だが、ソクラテスはそれに満足しない。ソクラテスにとって、真実を知ることは、言説の良き実践にとっての前提条件ではないし、むしろ、言説が真実の言説であるためには、真実の認識が語ろうとする人にあらかじめ与えられていてはならない、とする。言説にとって、真実は恒常的で永続的な機能でなければならない。

ラコニア人の箴言

 ソクラテスは、【いわば伝統的常識として】ラコニア人の箴言を引くが、この起源は失われている【プラトンのテクスト以外に残されていないということ】。内容としては――ひとつの正真正銘の技術が成立することは、真実の把握なくして不可能であるし、また今後も決して不可能であるだろう。つまり、言葉パロールについての正真正銘の技芸が本当の技芸となるのは、真実が言説にとっての永続的な機能となるという条件においてのみ、というもの。

弁論術の位置付けられるべき場所

 ソクラテスは、このラコニア人の箴言から言説と真実との関係についての彼の着想を展開し、真実というものは、弁論の技芸の実践にとってのいわば精神的な前提条件ではなく、言説があらゆる瞬間に関係を取り結ぶものでなければならない、ということを示す。
 説得することを目指す弁論の術(弁論術レトリツク)とは、彼が言説ロゴスによる魂の教導サイコロジーと呼ぶものの一般的な形態である、とする。つまり、弁論術は言説を通じて魂を導くやり方のひとつであって、ソクラテスが提起する問題は、弁論術の枠内で提起されるのではなく、言説による魂の教導という【より上位の】一般的な枠内で提起されるもの。したがって、弁論術は、その内部に位置づけられるべきである。

対話術の技術

 ソクラテスは、そうした魂の教導全般について語るのだということを示した上で、弁論家の技芸の定義に立ち戻る。正当なことを不正なこと(あるいはその逆)であると個人を説得するような錯覚を作動させようとするなら、正当なものから不正なものへという具合に、唐突に飛躍することによってではない。正当なものから不正なものへは、少しずつ違いを生じさせることによって進む道筋によって進んで行かなければならない。
 では、どうすればそのような少しずつの違い(差異)を最も上手に確立し、それらをあるがままに認識することができ、望ましい説得の効果を得ることができるようになるだろうか。ある差異を認識するには、まず、散乱し分散しているものをひとつの総体的視点で取り集めることができなければならない。そしていったん総体的視点を得たなら、そのひとつのまとまりを種類に応じて、もろもろの種類に分割できなければならない。(この部分265d-eは)哲学の歴史における(有名な)主題であるが、興味深いことはソクラテスが、弁論術が目標としているまさにそのものを獲得するために必要とするものを示していおり、それは(弁論術の技術に対して)対話術デイアレクテイケーの技術である。

そもそも説得とは

 そうは言っても(とテクストの内部で……つまりソクラテス自身による反論として)、そうした対話術を越えたところに、それもそうした対話術的真実を、求められている説得という効果にまで高めるためには、いくつかの手法を用いる必要があり、それこそがまさに、正確な意味における弁論術ではないのか。この仮定に対して、ソクラテスが論駁していくが、弁論術のさまざまな技芸や要素……それらすべての要素は、実のところ、説得の術と行為そのものの基本でしかないという。
 そもそも説得ということを行うのは何なのか。それは、自分の言説の最初でまず陳述を行い、それから証拠を出し、手掛かりや蓋然性を際立たせ、次いで反駁する、等々といったことではない。そうではなく、説得ということを可能にするのは、どこで、いつ、どのように、そしてどういった条件でそうしたさまざまな手法を用いれば良いかが分かっている、ということである。

医学の参照/ヒポクラテスへの言及

 あらゆる医者にとって良い医者であるための条件は、ただ単に薬の力能デュナミスを知っているだけではなく、彼がその薬を与える身体、そしてその身体の組成について知っているということである。
 それと同様に、説得の能力(=弁論術的テクネー)は、(薬の)処方の集成以上のものではあり得ない。それが効果を持つのは、医者が身体のことを知っていなければならないのと全く同様に、魂のことを知っているという条件のもとでのみである。ソクラテスは(270eで)「そもそも言説というものがもっている機能[言説の力]は、魂の教導にあるのだから、弁論術を身につけようとする者は、魂にどれだけの種類の型があるかを、かならず知らなければならない。」と言う。

真実への関係における永続的な機能

 ここでよく理解しておかねばならないのは、プラトンが、真実の機能は言説を通じての永続的な機能であるべきであり、単に認識の前提条件であるべきではない、と強調するとき、言説は真実に結びついている必要があると言いたいのではないということ。つまり、真実の言説を述べるためにはまず真実を知り、次に語りかける相手のことを考慮しなければならない、ということではない。
 対話術と魂の教導についての知という、二重の必要性――互いに密接に関連し合い、哲学的言説に固有のあり方は、対話術によって「真実在」を認識することと、魂の教導によって言説が魂の本質に対して及ぼす効果とが結びついている、ということ。それは、魂が「真実在」の認識へと接近し得るのは魂の運動によってであり、また魂が自らを認識し、自らの本質を認知するのは、存在するものの認識においてだから、である。

真なる言説に固有のテクネー

 「真実在」そのものとの関係を持つべく対話術の道を歩む者は、自分自身の魂に対して、あるいは他者の魂に対して、あるひとつの関係を持つことを避けられない。その関係とは、(その道を歩むなかで)魂が変化を被り、真実に接近することが可能になるような関係である。対話術の言説における、真実への関係が果たすそうした恒常的な機能は、その言説が語りかける相手の魂に対してのみならず、その言説を語る者の魂に対して働きかける即時的・直接的効果から切り離すことはできない。 ロゴスの哲学的なテクネーは、真実についての認識と、魂の自分自身に対する実践ないし修練を同時に可能にするようなテクネーである。
 真実を認識することと魂についての実践、対話術と魂の教導との基本的・本質的で不可分な連接関係。それが真なる言説に固有のテクネーを特徴付けるものであり、また哲学者というのは対話術を用いる者であり魂の教導者であるわけなので、その点において本当の、唯一のパレーシアストとなる。

 フーコーは、講義原稿において、弁論術は「真実在」に対して無関心であり、また、魂に対して追従という仕方でしか語りかけないと述べ、それに対称的なものとして哲学的な言説の自己修練的なあり方を強調している。

今回は以上です。……やっと(一冊の)終りが見えてきました。次回以降は前にお知らせした経緯――コピー機の故障により、先に今年度の締めくくりがあり、前後して『ゴルギアス』が検討されます。読書ノートですから、もちろん順番を逆転させることはできますが、せっかくここまでライブ風に読んできたのですから、講義の進行の通りでいこうと思います。

私的コメント

 読解における難しさはどうでしょうか……いかにもプラトンのテクストらしい――というのも、講義においても割愛されていますが『パイドロス』にはイデア論も含まれているので――それに馴染んでおられる方は、むしろ退屈だったかもしれません。そういう意味では、今回の有意なポイントは、「対話術と魂の教導の不可分な連接関係」や「哲学的が自己修練的なあり方」である理由……つまり結論部分ぐらいが目新しかった、といったところでしょうか。
 とはいえ、(対話術という方法かどうかは別にして)哲学には、あらかじめ真実が与えられているわけではなく、自分と他者の永続的な変化の中で「本物になる」というのは、ある種の相対論を内包しながら(ここにはフーコーの意図が感じられます)あくまで実践(エルゴン)としての特徴がよく示されている部分だと思います。もっとも、「常に」とか「修練」といった(これまでにも出てきている)常在戦場的な特徴の方には、辟易しますけどね、あくまで私的にはですが。
 さて、少し落ち着いて客観的に眺めてみると……若干割り引いて評価するにしても、哲学者のみが唯一のパレーシアストというのは、良しとしましょう。ただし、それは(次回の講義でも言及されますが)キュニコス派のやり方であってもそうです。今回はプラトン、特に初期のテクストを読解しているので、パレーシアストのあり方が示されているとしても、あくまで偏っているということです。といっても……キュニコス派のあり方の方が、現代人にとってはよっぽど真似できないものですが。
 現実的かどうかは置くとして、哲学的であること=パレーシアを用いること。このことにどのようなアクチュアリティがあるか、というのは、継続的にこの読書ノートのテーマです。
 ひとつ、試みとして事例を挙げるなら――「コーチング」にパレーシアはあり得るでしょうか。(コーチングされる側に答えがある、という)原則から、その「答え」を「真実」とするなら、ありえない、ということになります。一方で、コーチング(現代風の魂の教導風)のあり方が「自分と他者の変化」であるならば、そこに「本物」があるかもしれません。

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