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[読書ノート]3回目 1月12日の講義(第二時限)~2月2日の講義(第一時限)

講義集成12 1982-83年度 86頁~194頁

今回のまとめ

  • 権力者が弱者に与える自由というリスク

  • 弱者が権力者を非難するリスク

  • その組み合わせとしてのパレーシア

古典古代の時代のパレーシア

真実を語る自由における「勇気」というニュアンスはない

古典古代時代におけるパレーシアは、【都市】国家を特徴付けるような3つの政治的構造のうちの一つだった。
(政治構造の)①民主主義――(全員の政治参加ではなく)市民の一員として権力に参与する資格のあるもの全員の参加。
②自由と強制が同一かつ平等になるようにする平等の構造に関わる、権利と義務。
③政治の領域において発言する自由――パレーシア

『イオン』の読解

フーコーはエウリピデスの悲劇『イオン』(紀元前418年に書かれたもの)を端から端までパレーシアの主題に貫かれているテクストとして取り上げ、複数の講義にわたって読解を進めていきます。その過程で『イオン』のお話(劇)としての内容についても丁寧に丁寧に論述されます。しかし、この読書ノートでは、劇の内容はバッサリ割愛するので、以下、トピックスの抜書形式となります。

個人の社会的・政治的な立場ステイタス

(アテナイの)政治的権利の骨格のひとつは、語る権利。この権利こそが政治構造ポリテイアあるいはアテナイの体制を支えるものであり、物語の主人公イオンが求めるもの。
『イオン』では【真実の語りをめぐって、ギリシャ悲劇でおなじみの】神託が重要な位置を占めるが、本当のことを語ることができるような政治体制の可能性をうち立てる手段は、人間[によるもの]である【この部分は後の伏線】。つまり、神託における真実の語り(命令する言葉)から政治的な真実の語り(真実と正義の、つまり正義の言葉)への移行(パレーシアの新たな領域の確立)がテーマ。

合法的な市民の中の3つのカテゴリー(区別)

①無能力な民衆……能力/自分の富を通じて、国家のために何事かをなしうるような力すら持たない者。法的には完全な市民であるけれども、ある種の「付加的なものプラス」を持たない人々の集団。
② a.「良識のある人々」と b.「賢明な人々」……「a.」は、道徳的で立派な人、要するにエリートであり、【政治的な】権能を持つ人々。「b.」は、財産や生まれや地位に恵まれているけれども、その賢明さゆにえ政治に関わらない人々。(フーコーは、この②を、国家に帰属するひとつのあり方に関する哲学的な主題として強調する。政治参加の条件を満たしつつ、かつ実業と関わり合いを持たず【つまり仕事で忙しくしていないということ】、政治には関わらないという無為なあり方……賢者。)
③裕福で、力を持ち、良識のある市民……賢者と違って、ロゴス(発言すること)とポリス(都市に関する事柄に従事すること)とに関わり、実践する者。国家を所有し、国家を操り※、名誉を手にしている人々。

※この「操る」という言葉は、アレーテイアに該当。「自分の好きなようにする」といったマイナスのニュアンスは持たず、国家に働きかける(技)術といった意味合いの言葉。

パレーシアは権力の行使そのものや、単なる市民としての地位ステイタスでもない

パレーシアとは私【フーコー】が思うに、市民の地位を越えて上にある言葉であり、権力の純粋で単純な行使とは異なる言葉だということ【上記「3つのカテゴリー」にまたがっていた権能や地位とは別の切り口を挿もうとしている】。
パレーシアは、都市国家の枠内で権力を行使する言葉ではあるが、(命令を下す言葉ではなく)他の【市民の】発言に対して自由を残し、【市民でない】従うべき者たちに自由を残し――少なくとも、納得できた場合にのみ従う、という点において彼らに自由を残している言葉。他の言葉に自由な余地を残し、他者を自分自身の意志に服従させるのではなく彼らを説得するという責務を負った言葉がはらむ、そうした政治的危険リスク。これこそがパレーシア特有の領域を構成するもの。【つまり、リスクを伴った③ということ】

人間的要素:反対向きのパレーシア

『イオン』が書かれた当時にはパレーシアと呼ばれていなかった(それに分類されていなかった)が、ヘレニズム時代とローマ時代にパレーシアに分類される言表が、『イオン』の中に既にある(クレウサ【イオンのお母さん】によるアポロンへの呪詛)。
弱者が権力者に対して叫ぶ、そうした不正を糾弾する言説のうちには、自分自身の権利を強調するある種の仕方があると同時に、全き力を持つ者に挑戦を仕掛け、その者を、いわば自分自身の不正についての真実と戦うという状況に置く、ひとつのやり方。自らの弱さにもかかわらず、弱者が、強い者をその犯した不正ゆえに非難するという危険をおかす言説。
権力者の不正(過ち)とは、弱者がいかなる対抗手段も持たず、戦ったり復讐することができない、根本的に不平等な状況にいる何者かに対する不正である。弱者にできることはたった一つ。自分の危険と災いを引き受けた上で、不正を働いた人物に向かって話しかけ、語ること=パレーシア。それは、権力の行使に関わるパレーシアとは、ほとんど反対方向を向いた言説である。

政治的言説の母型

最も強い者が合理的に統治できるためには、最も弱い者が強い者に向かって語りかけ、真実の言説によって挑戦するということがなければならない。すなわち、人々を統治することを可能にする合理的言説と、強者の不正を非難する弱者の言説の組み合わせ。強者の不正について語る弱者の言説は、強者が人間理性にもとづいた言説によって人々を統治するための、必要不可欠な条件(として明確になるのはローマ帝政期になってから)である。

3つ目のパレーシア:告白

語られる内容は、神への呪詛と全く同じ。ただし、相手が違う。(自分の)罪を告白できる相手、自分を導き、助けてくれる相手に向かっての言説。

同時期に書かれていたであろう「肉の告白」が想起される。図式的になるが、フーコーは「セクシャリティ」という問題圏と「パレーシア」という問題圏を同時に扱いながら、そのどちらでも「告白」が重要なキー・ポイントであるとしている。私見になるが、告白がより重要な役割を果たすのは「セクシャリティ」の方であるように思われる。パレーシアについては、統治の言説と非難の言説で完結しているように思えるからだ。もっとも、それこそ悪しき二元論による矮小化かもしれない。

『イオン』読解を終えるにあたって

神々がパレーシアを持つことは決してない

パレーシアは人間的な営みであり、人間の権利にして人間が冒す危険である。

『イオン』から読み取れた3種類のパレーシアの実践

①【狭義の】政治的なパレーシア……身分に関する条件。および権力者が行使する権利。
②法的なパレーシア……自分の権力を濫用する人物に対する、力なき者の叫び。
③道徳的なパレーシア……自分自身の過ちについて自分が持っている感情なりから抜け出るように導いてくれる人物に対しての告白。

 今回は以上です。冒頭の頁数をご覧いただければよいのですが、悲劇の内容部分(および、個人的には余談だろうと思われる『オイディプス王』との比較部分)をぶっ飛ばしました。しかし、読書ノートとしては、比較的分かりやすい回になったのではないかと思います(これぐらいの文字数がヘルシーですよね)。
 注意点としては、至るところに「3種類」が出てきますが、それぞれテーマが違うので、別物として読んでもらえば誤解は少ないと思います。
 次回ですが……まだ『イオン』は続くんですねぇ。内容としては、パレーシアの構造分析のようなものです。今回と真逆で、頁をゆっくり追っていきつつ、それでも内容としては複雑なものになるでしょう。……気の重い話です。

私的コメント

 告白の位置付けについては、注釈で示しました。ハイライトとしては、なんといっても「統治の言説と弱者の非難」がセットでであることがパレーシアの条件と言われているところでしょう。条件というところがポイントで、ベースは身分的な条件です。古代ギリシャでは市民以外は発言権がなかったというやつですね。そして、市民が統治をするわけですが、その時点で一つ目のリスクに開かれている(市民でない人は従わないかもしれない)。これは前回までの講義内容の流れで理解できます。今回の急展開は、「弱者」と書かれていますが、ようするに発言権のない人(奴隷だけでなく――こちらの方が重要ですが、外国人(移民)も含まれています)の語り(言葉、主張)へのフォーカスですね。この二つは大きく隔てられているもの(だからこそ、弱者はいかなる対抗手段も持たないと書かれる)でありつつ、私たちの現実で考えても極めて接近しているものです。つまり、会社の命令とそれを受ける者。あるいは上司と部下(社長と従業員)。先生と生徒。医者と患者。もしくは、まさに国民と外国人。ここでは、同じような立場の人間関係が話題になっているのではないのです。
 どちらも、好き勝手言うわけではありません。真実の語りであることが、一つの共通点です。もう一つの共通点が、実際のレベル感は違うとしても、お互いリスクを賭けているということです。弱者のリスクに関しては、実は目新しくありません。プラトンやディオンの話で出てきているからです。目新しいのは、この二つがセットになってはじめてパレーシアが(いわば)発動するということでしょう。権利とリスクをセットにして政治的とするのは、ランシエールにつながるものがあるように思います。
 さいごに、「神はパレーシアを持てない」ということの補足だけします。これは「神はそもそも間違わない」という話ではないです。マンガでもいいんでギリシャ神話の知識がある人なら分かると思いますが、ギリシャの神はほとんど人間みたいなもんです(戦の神がケンカで人間に負ける話もあるぐらいです)。つまり、間違いもすれば、嘘もつく。フーコーがいっているのは、特に神託という形式のことで、神託は〈半分の真実〉しか語れないんですね(ソクラテスへの神託やディオゲネスへの神託もそうでした)。それが一点。もう一点は、過ちを犯すくせに、基本的に神はそれを認めないからです(『イオン』ではアポロンの過ちに対して、本人ではなく唐突に出てきたアテナが特に謝罪することなく適切な落としどころを指示してお終いです)。この二つの理由で「神はパレーシアを持てない」と言われているのです。ジーザスはどうかなぁ……もし、間違わないなら……パレーシアは無理ですね。

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