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読書ノート補遺2:読書ノートをやった意義

 こちらでは、いくつかの角度から「読書ノート」の意義を感想ベースで書いていきます。ゆるい話なのでご安心ください。

感想

 簡単に感想を述べさせていただきましょう。まず、やってよかったかどうかでいうと、明確に良かったです。該当のテクストは、記事の題材にする前に何度か読んでいますが、読書ノートの記事にしていくなかで多くの発見と知的興奮がありました。
 一方で、読んでいただいている方のお役に立てているかどうか(あるいはこういう表現はいまいちですが)、需要に対してある程度の供給ができているかどうかの実感は、いまのところないです。ないので、願うのみですね。

定義:要約ではない

 二つの意味で要約ではありません。感想を引きずってしまいますが……需要という意味では、もしかしたら要約の方があったのかもしれませんが、あれらは読書ノートです。違いの一つは、私の言葉や解釈を加えていることです。したがって、局所的にはテクストの過剰といったものがある、という点で違います。もう一つ、構成を大きく変えているという点で違います。割愛というものは、要約の場合もするでしょうが、フーコーの論述の順番を可読性のためにかなり動的に変更したり、再構成しているということです。

分かっていた非常に大きな欠点

 正直、始める前から「読書ノート」という名称が適切でないことは分かっていた……そういう欠点があります。それは、外部のテキストをほとんど参照していないことに代表される、いってみれば、検証やエビデンスについての言及が決定的に欠けていることです。とはいっても、私は勤め人で、もちろん専門家でもありません。この欠点から目を逸らして、断行したというわけです。

意義:私にとって

 読書ノートをやる前は、まぁ、哲学者の紹介を順番にやっていたわけです。それはこれからもしていきたいんですが、一方で、(専門性は諦めたとして)純正の哲学書――そりゃ厳密には一次文献でしょうが、ここでは副読本ではないって意味で勘弁してください――を丁寧に読むってことをnotoでやってみたかったということです。
 この点に限れば、持っている本ならなんでもよかったんですよ。正確には、読み尽くしているもの以外で、かつ私の力量で読解可能なものならなんでもよかったです。アドルノの『否定弁証法』とか、ラトゥールの『虚構の近代』とかですね。……と書いていて思うのは、よく考えたらなんでもよくはないですね。フッサールの『イデーン』とかデリダの『グラマトロジーについて』なんか、やっても意味ないですわ。古い古い。

意義:notoにとって

 なんでもいいとなったときに、別の基準で意義あるものを選ぶことになります。これはとても単純で、同じことをやっている人がいないか、極めて少ないもの、という基準で考えました。
 哲学者紹介としてフーコーをとり上げたとき、『講義集成』の入手性がとても悪いことを知りました。それもあってでしょう、フーコーの最晩年のテクストの紹介というものがネット上でも、あるいは日本語のテクストプール上でも少ないことが分かりました。じゃあ、やろうか、って感じですね。
 その媒体にnotoを選択したのは、まぁ、平たく言うと、応援しているからです。ぶっちゃけ、私は厳密な意味でクリエイターではありません。あと、これは個人的なポリシー/ドクサですが、哲学で(notoさんが得意とする)収益を得ようと思っていません。つまり、メディアとしてnotoを選択する理由は一義的には無いのです。しかし、notoがテクストを主体とした一つのメディアとして成長すること、若干ビジネス地味ますが、運営会社が表明している事柄について、応援をしたい気持ち、そういう種類の理由はありました。おりしも、読書ノート期間中に、上場がどうとかいうニュースを見ることもありましたが、ま、がんばってねってことです。一方で、いわゆる「がんばっていること」の実際、つまりさまざまな企画、コラボ……それらにほぼ無関心であること、これはまぁ、縁遠い事柄だなぁと思っています。
 他方で、notoさんから見たとき、私の記事たちが、不適格(マッチしない)と認定されることは、もちろんありえるでしょう。そのときは、せめて事前にご一報いただければ、ですね。

意義:フーコーの紹介として

 フーコーという哲学者は、有名な方だと思います。でも、いろんな理由で、その哲学の理解には恵まれていないと前々から思っていました。あるいは、(素人がこういうこと言うこと自体無意味ですが)世の解説本のレベルの低さ、もしくは偏りが気になっていました。
 ここまで書いてきたように、私にとって読書ノートは手段です。でも、それを通して、フーコーの哲学の幅の広さの認知に、微力な貢献ができたとすれば、何の問題もありません。それでよしです。もちろん、逆もありえます。私の記事によって誤解や、それこそレベルの低い理解が広がるなら、それは問題です。

意義:取り上げたテーマから

 多くの哲学者が(しばしば晩年に)その人なりの「哲学」の定義らしきものを書くことになります。フーコーの場合は、明らかに、講義集成13にそれがあったと思います。彼の場合、歴史のなかに、系譜学的な形式でそれを表明することになるわけですが、とはいえ「フーコーにとって哲学とはなにか」がコンテクストを伴って明らかになりました。
 それと並行して、フーコーの一種の主張、少なくともその方向性が明らかになったと思います。これは、新しい視点で歴史を記述しなおす研究者(事実そうだった)としては、前面に出ないものです。例えば(図式的ですが)生権力を分析したとして、フーコー自身がそれに肯定的だったのか否定的だったのか、あるいはフーコーの主張にとって有用なものだったのか、むしろ打破すべきものだったのかは、必ずしも明確でなかったと思います。それが、ある程度までハッキリしたのではないかと思っています(どういう風に思っているかの内容は補遺1をごらんください)。
 ここまでを、哲学的な側面といえるとすると、もう一つの側面、政治的な側面があります。といっても、フーコーの政治というより、当初のメインの概念であったパレーシアが自動的に持つ政治的意味合いです。フーコーによる高水準の読解によって、古代の政治あるいは思想において、パレーシアが非常に重要視されていたこと分かりました。パレーシアは、時代によって、意味も価値付も異なりますが、私を含めた読者としては、特定の用法の限界を意識しつつ、現代的な諸問題について、パレーシアの側面から考えるヒントを得られるわけです。
 これは、私の意見ですが、一般的に政治が問題なるとき、「権利」「自由」「平等」等が、重要な概念であり、その概念の系譜がそれぞれ辿られたりします。別にいいんですが、その種の知識は、キュニコス風に言えば、縮減の対象になるマテーマタといったところでしょう。つまり、学校の勉強としてはいいんですが、それらの概念を詳細に知ることで、おそらく実際の政治からは遠ざかる――そういうものではないかってことですね。
 逆に、政治(場合によってはビジネス)でテーマにして意味があるのは、パレーシア、生き方、他性(真理)とかなんじゃないか、と、いちおう建設的な提案としてそれがありうると思うのです。具体的には、パレーシアだけでもいいですよ。それがあるとか、それに高い価値があるとかの観点で見直すだけで、ビジネスも含め、ガバナンスというものがかなりシンプルに整理することができるのではないでしょうか。そして、それはすぐにでも実行に結びつくかたちで指針を与えてくれるものです。

さいごに

 こんなところでしょう。まー、年内に片付いたというのは、気持ちの上ではすっきりとかですけど、実際はどーでもいいことですね。
 いや、言うべきことがありました。全部でも一部で、「読書ノート」を読んでくださった方。これから読まれる方。あなたがどのようなご感想を持たれるにしろ、私は、感謝しています。ありがとうございます。


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