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自分が少し、好きになる 自分のルーツを振り返る⑥


‥続き



自分の学習に対する環境とその積み重ねを嘆く彼女を見て、僕は何も気の利いたことが言えなかった。



あぁ、小学校の教育って本当に大事なんだなとこの時痛感した。


もちろん、中学も、高校も、大学も、それぞれの時期に適した学習や経験があり、どれも大切な学びには違いない。


‥でも、その1番の基礎となるのは、やっぱり小学校なのかなぁと思うようになった。


そんな思いから、僕は再度小学校の教員を目指すようになる。



‥しかし、心身疲弊した状態で受けたその年の採用試験もあっけなく不合格。


退職して3ヶ月では全然太刀打ち出来なかった。



僕は焦りながらも考えた。

このまま試験ばかり受けても埒があかないと。


ともかくまずは経験を積まないと。



そう思って、講師として働くことに決めた。



‥幸いすぐに、僻地も僻地の学校から、講師としての依頼が来て、僕ははじめての小学校担任として現場に立つことになった。

行ってみると、歓迎会を開いてくれて、もてなされた。
ものすごく喜ばれた。


あぁ、頑張ろう‥と心から思えた。




赴任地はかなりの僻地で、児童数もとても少ない小学校だった。


担当した学年は低学年で、人数も10人もいない超小規模な学級だった。



のんびりとした町で、元気な子どもたちとのびのびと穏やかな教師生活がスタートした。



‥はずだった。





蓋を開けてみるととんでもなく大変な子どもたちだった。


僕はたった7人の子どもたちすら統率できなかった。



初日から泣き叫び、暴れ、ブチ切れ、大喧嘩する子どもたち。平気でハサミを掴み友だちに飛びかかったり、それを取り上げると箒を取って振り回したり、もう授業どころではなかった。



もちろん、僕自身に授業技量、担任としての器量が全くなかったのも原因の1つには違いなかった。



‥しかし、それを抜きにしても、相当大変な学級だったことは否めない。それは、大ベテランであり、僕を救ってくれた恩人の先生も認めたレベルだった。



あっという間に僕はやる気を失っていた。

やる気というか、何をどうすればよいか分からず、またも日々をこなすだけの生活になっていた。


それでも1学期くらいまでは、どうにかしよう、頑張ろうと試行錯誤していた。


遅くまで教材を作ったり、色々教材を読んでどうするか考えたりしていた。



‥でも、次第にそれすらしなくなった。


何の味もしないご飯をただ生きるために食べ、現実世界から逃げるためにただ眠る。


それ以外できなくなってきた。



そもそもその町の生活も大変だった。


町の人たちは本当にいい人たちだったけど、とにかく催し事の呼び出しと飲み会が多かった。

二日酔いのまま学校に行くことも多かった。


‥というかそれが当たり前のような学校だった。



娯楽もなく、買い物も1時間運転しないとろくに出来なかった。息抜きする場所などどこにもなかった。


僻地手当てもあり、家賃もめちゃくちゃ安く、することもないのでお金は貯まった。


でも、お金があっても、何の喜びもなかった。


ストレス発散もろくにできないまま、僕は心身共にどんどん疲弊し、沈んでいった。





今思えばやはり甘ったれた部分もあった自分も悪いことは承知の上で。


ここでも、先生方からは次第にボロクソ言われるようになった。

講師としての採用を夏で終了させるつもりだったと面と向かって言われた。
今いるのは校長の温情だと言われた。


友人の結婚式に参加したいので次の土日は出かけると言ったら、
やることもやらない、今の学級はズタボロ。
そんな現状なのにそんなふざけたこと言ってるから採用試験も受からないんだと言われた。


居酒屋でお酒も入った席でひたすら僕がいかにダメな教師なのかをずーっと説教され続けた。
‥誰もそれを否定しないし、庇ってくれなかった。
(飲み会後、1人だけ僕を呼び出し、気遣ってくれた。)


あれだけ歓迎されていたのに、僕はまたしても学校のお荷物な存在となった。

優しかったのは、保護者だけだった。


もちろん、優しくしてくれる先生がいなかった訳ではなかった。


‥しかし、そんな先生も自分の仕事が当然あり、僕にばかり構うわけにはいかなかった。


それに、僕の味方をしてくれた先生は、自分自身も病んでしまっていた。


大ベテランな温和な先生は、急に学校にこなくなった。
一緒に体育をしてくれて、授業を見せてくれた優しい人だった。遠く離れた町にも名前が知れ渡るほどの先生だった。だが、その学級も相当に大変で崩壊し、心を壊してしまったのだ。


最後まで僕をこっそり助けてくれてた先生も、僕より早い段階で心を病んでいたと後で知った。心療内科に行き、薬を服用していたと知った。



‥今思うとやはり凄い学校だった。



そんな感じで、結局最後の最後までこの7人には振り回されっぱなしだった。

一人一人は可愛げのある子たちだったが、少なくとも学級としては完全に崩壊していた。


僕は正直辞めたくて仕方なかったけど、
この子たちを見捨てることだけはなぜかできなかった。


ほとんど誰も助けてくれない中で、僕はどうにか一年を乗り越えることができた。



結局、僕は試験に集中したいという名目で講師更新はしなかった。(というかおそらく希望したところでさせてもらえなかった。)

ちなみに僕をずっと助けてくれた先生もその年一緒に辞めた。彼は正規採用だったので、文字通り辞めたのだ。


彼ほどの力ある先生が辞めたぐらいだから、僕なんかどうにもなる訳なかったのかな‥と今になって思う。



結局、こんな感じで僕は高校、小学校と、いく先々で洗礼を浴び、ひたすら罵倒され続けた。


もちろん僕自身が全然仕事できていなかったので、仕方ないと言えば仕方ないのだけれども、それでも相当ボロクソ言われたものだった。


僕は向いてないんだろうな、と正直この2年の講師経験で思わされた。



‥なのに、それでもなぜか僕は、再び採用試験を受けることに決めていた。


もしかしたらこんな自分が先生になること自体迷惑なのかもしれない。

‥という思いもあった。


だけど、どうしても僕は、先生としてのやりがいや喜び、達成感、そして子どもたちとの充実した日々を知らないまま終わりたくないと思った。


もう一度。もう一度だけ。
これでダメなら、今度こそ、諦めよう。


‥そんな思いで、僕は最後の採用試験に臨むことになる。


‥続く。

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