傍迷惑

好きで好きで好きで堪らなくなってしまうと、そのままの勢いで動いてしまう自分を恥じた。返ってこないラインの履歴を見るのもつらい。まただ。またやってしまった。そんな事をつよく思いながら、布団に顔を埋めた。あの人の残り香に感じて、更に嫌気がさす。もう数日ほど経つのに、まだ嗅ぎ取る事ができるのか。そんな驚きも、瞬時に恥の材料となる。当然だよ、だってその香りが失くならないように、閉じ込めておけるように、布団の中で眠るのを避けているんだから。いつもの自問自答にすら常に嫌悪感がまとわりつく。胸の中に渦巻くものを、吐いて捨てられればどれだけ楽になれるのだろうか。それでも喉の奥へと指を突っ込めない私は、必死になって想いの丈を消化しようとしている。連日のつまらない日々に突然現れた男だった。遊べるかもしれない。楽しめるかもしれない。そんな不埒な期待を寄せた結果、こんなに苦しめられている。布団に横たえていた身体を起こし、台所へと向かう。コップ一杯の水を注いで飲んだ。ため息をついてシンクを背にしてもたれかかる。

なぜ人は人を好きになれるのだろう。いや、この狂信的とも言えるような『好き』という感情には、きっと何かトラウマのようなものがあるのかもしれないとさえ思えてきた。トラウマを乗り越える為に、意識的に過剰な『好き』を持っているんじゃないだろうか。好きだからなんだっていうんだ。緊張でうまく話せなくなるような『好き』に、何を期待しているっていうんだ。掘り起こすように記憶を探り、恥じ入るような自分の行動の数々を思い出しては厭になっていく。頭の奥からギリギリとした音が聞こえてきそうで、自分の中で苛立ちが育っているのを感じた。舌を噛んで、痛みで苛立ちをごまかす。頭の方はそんなことを意に介さず、性懲りもなく思想を続ける。

身体を重ねている勢いに任せていたとはいえ、愛しているだなんてどうして言ってしまったのか。相手の何もかもを知らないのに、どうして言えてしまったのか。畏れながら話す相手へ、どうして愛を向けられるというのか。いつもそうだ。どうして、近づくのが怖いと思う相手にばかり、踏み込もうとしてしまうのか。ふと玄関を見て、男の姿を思い返す。爪先から頭の先まで、真っ黒な男だった。黒い靴、黒い服、黒い髪、黒い目から放たれていたまなざし。その得体の知れなさに、瞬間的にひどく惹きこまれてしまっていた。後悔が押し寄せてきて、目を閉じてこの場にしゃがみこんだ。左手に持ったコップを口に寄せ、一気に飲み干す。酒でもないのにそんな飲み方をした自分が滑稽に思えた。

コップを床に置いて、膝をかかえて俯いた。泣きたくなっているのに、目頭に蓋がされているような感覚がある。心から湧き立つ苦しさが涙腺を刺激しているのに、それを許さない何かが蓋を押さえつけているようだ。苦しい。苦しい。くるしい。勘違いを増やして行く思考回路が、今もなお悪あがきの可能性を生み出している。電話をしてしまおうか。もう一言メッセージを送ろうか。道端でひょっこりと会えないだろうか。あの男が好きだと言っていたDJのライブにでも行こうか。きっとまた会いさえすれば、また近寄ってくれるかもしれない。そんな勘違いをし続けたところで、相手から気味悪がれるだけだというのに。現実を振り返るように、ラインの履歴を思い出す。もう何も返ってこないのが、唯一の事実なんだ。相手にとって私というものは、狂っている行動の数々を易々とこなす危ない女として見えているだろう。そりゃそうだ、私自身、同じことをされたら迷わず逃げて行く。
すっと頭が冷えた気がして、顔を上げる。
逃げて行く。
ああ、そうか。
私は嫌われるために、あの男へ抱いてと願ったのか。
それまでのオーバーワークから解き放たれたように、頭が軽くなった。
いっそ嫌われてしまいたかったのだ。
好かれないのなら、嫌いな奴として、その心に巣食いたかったのだ。
私の中に、嫌いだと思う人々が居座っているように。

放心してしまい、しばらくの間、座ったままぼんやりと部屋の中を眺めていた。嫌いだと思っていた人々の顔を思い出そうとする。人の話を聞かない、口うるさい母親。自分自身のテリトリーに敏感な、クラスメイトの女子。口下手で好き嫌いがわかりやすい同僚。誰も彼も印象深いと思っていたのに、その顔には靄がかかっていてうまく思い出せなかった。自分の心が囚われている理由がわからなくなるぐらい、あっけない事実だった。

コップを掴んで立ち上がり、水を一杯注いだ。少し溢れたので、フチにそっと口をつけて一口飲んだ。目を閉じて『好き』になっていた男の顔を浮かべてみたが、もう靄がかかってしまったようで、うまく思い出せなかった。

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