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去来する夜は

こいつはどこまで本気なのだろう。広い部屋の真ん中に置かれた、ダブルベッドよりも広いベッドの上で友人に寄り添われながら、ふと思った。彼は背後から左腕で私を抱き、右手で携帯をいじっている。なんとなくそうした方がいいような気がして、彼の身体へと上半身を預けていた。

「今日、スーパームーンだって。」
「なにそれ?」
友人の声はこちらへと向いているのに気付きながら、言葉だけで返事をした。
「さあ。わかんねーけど、月がでっかいらしい。ほら。」
そう言って友人は携帯の画面を見せてきた。そこに映された記事には、タイトルに「見逃すな!貴重な現象”スーパームーン”!」と書かれていた。
「ああ、満月で…?」
ざっと目を通した内容から、そのスーパームーンの要素らしいキーワードを拾う。友人の腕と触れ合っている下腹部に、かすかな不快感を受けながらぼんやりと口にしていた。
「そうなんじゃない?まあ、関係ないか。」
そう言って友人は携帯を横へ置いて、私の首に頭を寄せた。
一緒に酒を呑んで、1年ぶりの再会を楽しむ程度の会話をしたかっただけなのだけど。飲み屋を出た帰り道に抱かれた肩を、振り払わずにいたのが敗因か。太ももと胸とを這う手のひらを感じながら、天井と壁の境目をぼんやりと眺めて考えていた。いや、この友人と呑んだ後はいつだってそうだった。肩を抱いて来て、「ちょっとだけ」と言って私の足を駅から遠ざけようとする。都合の悪い冗談だと思って、以前は「大人しく帰りなさい」と笑いながらあしらっていた。じゃあ、今日はどうしてここまで来てしまったのか。振り払う気力がなかった、というのはよくある理由。それならば、どうしてそんな気力を持たなかったのか。
私が”そうなる”のを許しただけか。
ここで視界いっぱいに友人の顔が入って来て、私は考えるのをやめた。それからは、実に滞りなかった。

受け入れた熱を身体の中に揺蕩わせる。意地で飛び乗った終電から降りても、触られた肌はひりひりと灼けつくようだった。街灯が輝く夜道を歩いていても、寒々しい空気にさらされた私は心からは明るくなれずにいた。
好きでもない男に抱かれたのは何度目だろう。友人として調子を合わせていたいだけの相手なのに、どうして今日はその遊び方を許してしまったのか。歩く身体に、友人の指の感触がよみがえる。背中、首、頭、を、這いまわり。頬、太もも、臀部、を、撫で。少しの痛みがそこに残っているのを自覚して、自分の心を歩いてきた道へと追いやった。見慣れた帰り道もうまく認識する事ができない。味わってきたものを少しずつ切り捨てるようにして、歩道のあちこちへと投げていく。身体のあちこちに残る、低温火傷のような違和感。その感覚を思考でなぞる度に、ぎり、と、頭の奥が軋む。
いらない。そんなものは、明朝へは残さない。
忘れ去るために、記憶を切っては捨てていく。ある程度のものがなくなった頃、理性あるうちの友人と少しだけ交わした会話を思い出した。
立ち止まって、夜空を見上げる。
月が、大きい。
雲ひとつないように見える夜空には、普段では見えない幾つかの星も輝いていた。
「…はは。」
スーパームーンだというのは、本当だったらしい。適当な話ばかりをする彼にしては珍しく本当の事を言っていたのが可笑しくて、意識する前に笑い声がこぼれた。インターネットの記事になるぐらいなら、流行りものなんだろう。見られた事に満足して、顔を下ろした。まだ少しだけ心がざわめいている。もう夜も遅い。早く、帰らなきゃーーー
前を向いて二、三歩進んだところで、ふと、想い人の姿が目の奥をよぎった。目前の景色はぼんやりとしか捉えていない私の視界に、まるで本当に見えたかのように映った。驚いたあまりに足は止まり、息を呑んで立ち尽くす。
ぱちん、と、心を叩かれたようだった。眠気覚ましのために頬を叩いた時とよく似た衝撃。次いで思い出したのは、惹かれるきっかけになったその人の笑顔だった。忘れる作業をしていた反動かのように、相次いで思い出がよみがえる。職場でしか会わないその人と、個人的な付き合いはしていない間柄なのが救いのように思えた。浮かんで来た事事は友人と比べればほんのわずかだったが、もっとその素性を知りたいと求める欲を呼び起こすには充分だった。誘発された感情と、電車へ乗る前にしてきた行動の矛盾に頭が混乱していく。歩くのが難しくなって、歩道わきのガードレールへと身を寄せる。
息苦しくなって、また、夜空を見上げた。
月が、大きかった。
いつになく眩しい月光のように見えて、そのまま見入る。眺めるうちに、身体中でうごめいていた様々な感覚がふっとなくなっていくようだった。

この月を、あなたも見ているのだろうか。

煌々と光る月を見ながら、想い人への情で胸が満たされていく。幸せを受け入れたような気がして微笑んだ瞬間、この心に罪悪感という影が落ちた。
どうして。こんな風に想うだけで幸せになれる人がいるのに、私を友人に抱かせてしまったのだろう。思いを馳せて幸せな気持ちになるのを否定するように、虚ろな判断力で自滅するようなことばかりをしている。想うだけでは感情は届かないという当然の話を、この世の最大の不幸のように感じて、必死に目をそらしたフリをしている。その実は、あなたを好きでいるという幸福を無視して、届かない想いを抱えているという不幸を上塗りするために、友人という丁度いい遊び相手に甘えてしまっているような。
微笑ませていた口元が歪んだ時、胸が詰まるような苦しさと、首がきゅっと締まるようなせつなさを覚えた。
「そんなあなたでも、僕は受け入れるよ」
幻聴が聞こえてまた頭が困惑し、ぐらり、と、揺らぐ。月光が眩しすぎるような気がしてうつむいた。こんな言葉がほしくて、不幸だと思うものにばかり目を向けているのか。不幸に打ちひしがれていれば、彼が手を差し伸べてくれると思い込んでいるのか。
喘ぐように息をしながら、このままでは自己嫌悪に心を殺されると気づいた。あれこれと考えるのはやめよう。すぐにでもシャワーを浴びて、もう眠ろう。皮膚の違和感や微かに残る唾液の匂いはあるけれど、どれも洗い流して一晩眠れば消えて無くなる。そう決意して街路へと視線を上げた。自宅へはあと三分の一程度の地点にいる。それを励みにして、早足で帰路を行く。歩くスピードに慣れた頃、近頃気に入って聴いていた歌が耳の奥で鳴り出した。職場での休憩前、エレベーター待ちの間に雑談した時、想い人から教えてもらった曲だった。月明かりに包まれた慕情をたいせつに抱えながら、捨ててきた記憶たちを振り切るように歩く。
お願いだから、今はこの想いだけを持ち帰らせて。私のもののようでいて、私ひとりでは持つことのなかったこの恋心を、確かなものとするのを許してほしい。幸福感を試すように、不幸と思う行動を選ぶのを、もう辞める為に。
鳴り止まないラブソングを聴きながら、訪れた冬の空気へあやまちと心を流した。

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