日記…20161029

「好きになる」というのは、そんなに特別なものなのだろうか。というのが、起点。
「好かれる」というのは、そんなに唯一無二なものなのだろうか、というのが、疑念。

「好き」という感情について、敷居を高く設定している気がした。でも実際は、そんなに難しいことじゃない。ちょっと気があっただけで、ちょっと嬉しくなっただけで、ちょっと心を許してもらえただけで、その人のことを好きになれる。それが積み重なって、もっと相手を知りたいと興味をもった時に、恋愛感情を伴う「好き」になるのかもしれない。逃げられたり隠されたりすると、その興味による好奇心が行き場を失うから、より加熱していくのかもしれない。一緒に時間を過ごして、楽しい思いをしたいという願いが果たされないから、焦がれていくのかもしれない。発散されない欲求が、自分の中で発酵してこじれていくような。
敷居の高いもの、ちょっとやそっとじゃ手に入らないものと考えているから、「もうこの人しかいない」という思い込みへ発展していくのでは、ないだろうか。

「好かれる」というものは、自分のもつ「好き」が前提になる。自分の価値観にある「好き」という感情や行動と同じものを向けられるのが「好かれる」という実感になる。そう考えていくと、「好き」の敷居を上げるほどに、相手に同じ敷居の「好き」を要求しているように思える。

なるほど、これが「温度差」というものか。

相手を知りたいという好奇心と、一緒に遊びたいという欲求で熱暴走を起こすのが「好き」ではない。
会話が楽しい、心を許しあえる、というのが「好き」なのだ。わたしが忘れがちなのは、それを自覚しておくこと。
というか。いや、それもあるけど。それに加えて。
そういう「好き」が、ほしい。

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