日記…映画「溺れるナイフ」の同級生女子を見て思った
映画「溺れるナイフ」を見てきました。
映画自体の感想については割愛します。
話したいのは、「夏芽の同級生の女の子」を見ていて感じた事。
「気持ち悪い女の子だな」と感じながら見ていた。片想いをもつのは美しいし、好きな人を見つめる事を止めるのが名残惜しいのも美しい。でも、彼女の言動とセリフに在る違和感と、相手の状況に合わせて立場を変えているような雰囲気がひたすらに気持ち悪かった。
たぶん彼女が「味方」の仮面を着けた「敵意をもつ人」のように見えたからだろう。
自分の「好きな人」を行動の主軸に置いて、「好きな人」が自分にとって理想的で素敵な姿で居続ける為に、「好きな人」の領域に勝手に踏み込んで一人で勝手に頑張っている。その理想の中には「好きな人が持つ理想」もないし、「好きな人がいなくなった時の自分」もない。それが良いか悪いかなんてのを言うつもりはなくて、「自分以外の他人を尊重しているようで、実際は自分自身の為になる事しかやってない」っていう姿が心底気持ち悪いなと私は感じたのです。
このキャラクターをそう見る事ができたというのは、私の中にもそう立ち振る舞える姿勢があるという証明になる。そして「自分の好きなものを守る為に他人を傷つけるのをやめてくれ」と誰かへと願っている部分もある。
「わたしの好きなもの・ひと」は、あくまで「わたし」だけの感情からきているのだ。それが誰にも理解されないとか、誰かに非難されたとか、それぐらいの事を他人へ牙を剥く理由にはしないでほしい。「わたしのすきなもの」はあくまで「すきなもの」にしか過ぎなくて、自分自身とは切り離して考えた方がその「すきなもの」の為にもなるのではなかろうか。
「すきなもの」を「わたし」のアイデンティティにしてしまうと、「すきなもの」を否定された時に「わたし」を否定されたような錯覚に陥ってしまう。だから否定されないように、必死に守ってしまうのだ。「生きる世界が狭まってしまった母親」が「子供」へとそうするように。
ひとの好き好きは多種多様。人の言葉の組み立て方も多種多様。否定するつもりもなくて発せられる言葉を、否定だと受け取ってしまう事もある。
自分の好きなもので誰かとケンカしても、しょーもないでしょうよ。「同じ人が好きでも、こんなに性格って違うんだね」ってぐらいで、いいんじゃないですかね。
基本的に日記はとっちらかったまんまです。投げやりになってたら、だいたい言いたいことは書ききったという態度なのだと思っていただければ幸いに存じます。
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