薄片、あるいはコマ送りの日常

気がつくと革靴の足音に合わせて体が緩く揺れていた。もちろん今の今まで寝ていたから、歩いているのは自分ではない。腕を抱き込むように丸まった体は2本の腕で支えられている。いわゆるお姫様抱っこだった。顔を上げると見慣れた金髪が頬に触れた。幸希だった。
「気がついたか?」
「何かしたっけ、僕」
「低血糖でぶっ倒れたから運んでやってるんだよ」
「あぁ...いつもの...」
「いつもにならないようにちゃんと飯食えって言ってるだろうが」
「反論の余地もない」
「そのまま起きてろよ、いくら軽くても意識ないと運ぶのきついんだから」
はーいと気の抜けた返事をして、海月は幸希の胸に耳を当てた。心音が心地よく頭に響いて、危うく眠りに落ちるかどうかといったところで幸希の足が止まった。そして近づいてくる足音があることに気づいた。
「丁度いいや、昴!」
「どうした、それ」
「ぶっ倒れたの部屋まで運んでんの、暇なら代われ」
「まぁいいけど...。先輩、起きてる?」
「眠たいけど起きてるよ」
「俺でいいの?」
「誰でもとは言わないけど、昴くんなら構わないよ」
「決まりだな。なんか食えるもの買ってくるから、安静にしてろよな」
そう言って海月を預けた幸希は歩いて行った。昴は海月を抱え直し、部屋を目指した。休暇中ということもあり歩いている人間はまばらだ。幸希とすれ違ったのはサークル室に向かっていたからで、多少荷物が増えたぐらい気にしてはいなかったが、成人男性とは思えない軽さに昴は心配すら覚えた。
「またなにも食べてなかったんですか」
「お酒は呑んでるけどね」
「つまみもなしに呑めるのが考えられないんですけど」
「君らだって煙草がつまみでしょう」
「まあ、そうなりますね。...にしても先輩、軽すぎです」
「散々見てるから知ってるでしょ、僕が細いのなんか」
「今それを言うのは反則...」
海月が顔を見ると昴はそっぽを向いたが、その頬が赤くなっているのは見てとれた。ここまで自分に深入りしておいて、純情さが変わらない昴が少し羨ましくもなった。海月は腕を昴の首に回して、より身体を近づけた。昴はこの厄介な荷物を早く下ろすために歩みを早めた。

「先輩、ついたんでちょっと下りて」
「しょうがないな」
「俺で遊ぶの、楽しんでません?」
「そんなこと...どうだろうね?」
扉を開けてふらふらとソファに倒れ込む海月を支えつつ、昴は冷蔵庫から水を取り海月に渡した。半病人の前で酒というのも気が引けるので、海月の横に腰掛けて窓の外を眺めた。冬も終わり、桜も花開き始めている。学年が上がってもこの関係が変わらなければいいと思って、そもそもこの人は進級できたんだろうかと不安になった。そんな心持ちもいざ知らず、海月は体制を変えて昴の膝に頭を乗せた。
「...動けないん、ですけど」
「動く必要がある?」
「特にないっちゃないですね」
「ふふ。あ、外。桜だよ」
「そうですね」
「綺麗だね。そうだ、後でお花見しようよ」
「ぶっ倒れてる人が無茶言わないでください」
「今度でいいから」
「幸希も?」
「二人じゃダメ?」
「駄目じゃないけど、なんで」
「うーん、幸希がいると空気が変わるからかな」
「...考えておくので元気なときに言ってください」
そう言って昴は海月の頭を撫でた。大きな掌の感触に安心を覚えて、海月はいつの間にかまた眠っていた。目を覚ましたのはそう時間が経たずに幸希が食料品を持ってきたときだった。
「ただいまーって、いいように使われてんな」
「困ってはいないんだけど、動けない」
「だろうな。ほら海月、菓子パンとか適当に入ってるから食っとけ」
「ありがとう」
一口サイズのクリームパンを頬張りながら、海月はしばらく連絡をとっていない彼のことを思い出した。こんな生活をしてると知ったらきっと怒るだろう。それとも昴みたいにしょうがないなと言いながら世話を焼くんだろうか。会わなくなってから四年が経とうとしていて、彼も自分の知っている彼ではなくなっているんだろうなと海月は思った。そしてなかなか喉を通らないパンを水で流し込んで、吐かないように上を向いた。最近は気を抜くとすぐ吐きそうになるから。

「久しぶりに酔ったかも」
「毎日酒飲んでる人が何言ってるんですか」
最近では珍しくなくなった、海月と二人きりの時間。缶チューハイを三缶ほど開けた海月が肩を寄せて、そして昴の握っていた缶を何口か飲んで甘いと言った。まだ一缶目の途中しか飲んでいない昴だったが、甘ったるくて飽きてきたところだったので海月の意見には全面的に同意だった。
「今日は気分がいいの。頭ふらつく感じ」
「実際ふらついてますけど」
「うん。...甘えていい?」
「断らないの知ってて言ってるでしょ、先輩」
「そりゃあ、ねぇ」
というか既に甘えて来てるだろう、という反論を飲み込みつつ煙草の火を消した。背中に回された腕を好きにさせていると顔が近づいてきて、唇が触れるか触れないかといった距離で止まった。昴の表情がこわばっているのを見て、海月はふにゃりと笑った。
昴は海月の意図が読めず目を逸らしたが、酔っ払いに意味を求める方が無意味だった事に気づき、自分の腕も海月の背に回した。
「ん...」
「嫌だった?」
「そういうわけじゃないよ。もっと力入れていいのに」
「折れるんじゃないですか、今の先輩なら」
「そんなに細いかなぁ」
「幸希みたいには言いませんけど、俺はもうちょっとあってもいいと思います」
「ダイエットとかじゃないよ、食べる気にならないのを放っておいたらこうなっただけ」
「食っても吐いてるでしょ、そのうち点滴生活になりますよ」
「うん、知ってる」
わかってはいるよと言いながら次の缶に手をつける海月を止める事もできず、今日はあまり飲まないようにしようと昴は思った。月明かりが海月の顔を青白く染めていて、いつもに増して病的だった。
「そういえばお花見、まだしてないね」
「ふらふらになってから言わないでください」
「いいじゃん、ちょっとぐらい」
幸希なら止めるんだろうなと思いながら、立ち上がって袖を引っ張る海月に付き合って夜の中庭に出た。

夜桜はまだ満開とは言えなかったが、それでも独特の美しさを放っていた。散った花弁を踏みながら、海月の細い体は桜の元へ向かって行った。
「あはは、桜だ」
「そんなふらついてたらこぼしますよ」
「いいの。昴くんもおいで」
「はいはい」
桜の根元に腰掛けて、海月はまた缶に口をつけた。昴もそれに倣って中身のほとんど残っていない缶を傾けた。そうして海月が何かを話そうとしている気配がして、黙っていた。しばらくの沈黙の中で、桜の降る音に耳を澄ませていた。
「昴くんは来年三年生?」
「そうですよ」
「幸希とおんなじかぁ。僕も一応四年になるから、まだ先輩のままでいられるね」
「別に同じ学年になっても先輩は先輩ですよ」
「ありがとう。...昴くんはなんでも許してくれるからつい話しすぎるな。ねぇ...訊いていい?」
「答えられることなら」
「うん」
そういってまた沈黙に戻った。海月の作る沈黙は嫌いではなかったが、何を訊かれるのか内心では不安だった。今でも海月のことは好きだ。だからといって何も求めてはいなかったが、海月が作った溝がなければ今のような関係にはなれないような気さえしていた。
「もしさ、僕が突然いなくなっちゃって、しばらくしてから見た目の似てる全然違う人が現れたら、どうする?」
「どうって...」
「訊き方が悪かったね。...その人を僕の代わりみたいに見ちゃうと思う?」
「思う」
「へぇ」
即答だった。海月はいつもみたいに少し困った顔をして、迷うと思っていた分調子が狂った。
「もともと俺のものじゃないから仕方ないけど...それでも先輩がいなくなったら悲しいです。だから代わりを求めると思います。強い人間じゃ、ないから」
「うん。僕も弱いから、昴くんに代わりを求めてた。けど、最近なんか、違うんだよね」
「違う?」
「昴くんって幸希と違って許してくれるから、つい甘えちゃう。見た目とか関係なしに、そばにいて欲しいなって、思っちゃってる」
それ以上は言わないでと願っても、遅かった。
「好きだよ。...ごめんね」
「そんなこと言わなくても、今まで通りで良いですよ。...繋ぎ止める努力なんて、しないで」
「半分ぐらい本当だったって言ったら?」
「半分は嘘なんでしょう。酔っ払いの言うことなんか信じませんよ」
「あは、はは。可愛くない」
「そうでもしないと、」
あの時、感じた溝を。同じ場所には立てないという本能を、否定してしまえば元には戻れない。もう何も求めない。今以上なんか、夢見てはいけない。そう決めたのが、崩れてしまう。
「...なんでもない。風が強いから冷えたでしょ、ほら戻りますよ」
「動きたくない」
「我儘な...よっ、と」
「わぁ、いつかと同じ」
昴に抱き抱えられながら、海月は眠りに落ちた。深い深い眠りの中で、もう二度と会えない姉の事を想った。彼女はこの冬を越さずに、薬を過剰摂取して帰らぬ人になった。

「断ったァ!?」
「そこ?」
「そこでしょ、いや...海月のことは好きなんでしょ?」
「好きだけど...はいそうですかって言うのもなんか、違うじゃん」
「まぁそっか、最近海月がなんか変だと思ってたけど...そっか」
幸希はそう言って肺に深く煙を吸った。突然の告白と、昴がそれを断ったこと。思っていたより二人の関係は複雑らしい。同時に、幸希は自分が何か間違っているのではないかと不安になった。
「俺、海月に嫌われてないかな」
「何をまた」
「いや、最近その...なんか心配で、お節介だったかなって」
「幸希ぐらいお節介なのがいないと、あの人本当に死ぬぞ」
「そりゃ、そうだけど」
「俺が甘やかしてるせいだから、気にするな」
「む、なんか不公平」
不満そうな顔をしながら吸殻を灰皿に落とす。酒でもないとやってられないと言わんばかりに、幸希は冷蔵庫のドアを開けた。
「あれ、珍しく酒がない。なにこれ...チーズに、チョコレート?」
「買ってこようか」
「いや、いい。あいつもなんか食べなきゃマズいって気づいたんだな、よしよし」
「二人とも、居たんだ」
「お、海月」
昴は幸希が海月に世話を焼いてるのを見ながら、あの夜眠ったきり、いくら揺り起こしても起きなかった海月を思い出した。酷くうなされていて、起きたと思えば泣きじゃくって。そんな素振りはもうどこにもなかった。きっと何かがあったんだろうと自分に言い聞かせながら、昴はまた煙草に手を伸ばした。
そうして、こんな日常が続けば良いと願った。

無理な金額は自重してね。貰ったお金は多分お昼ご飯になります。