届いた想い 届かない想い
ポエムです。
いまだに、「 #ときメモ動くかもよ 」とかで、何かしらのトレンドが続いていますね、我らのときめきメモリアル。
タイムラインやハッシュタグ「 #ときめきメモリアル 」や「 #ときメモ30周年ライブ 」で、追っていると、フラワースタンドや、コール本をはじめとした何かしらのイラストで、随分と賑わっていて、ときメモファンとしては嬉しい限りです。
特に、演者さんや原画さんなどから称賛されたりしている方々を見ていると、本当にゲームの"中の人"たちとファンの間も身近になったんだなぁ、とか感じざるを得ません。
接点を持てた人達の投稿を見ていると大歓喜。
まぁ、そうなるでしょうね。十年来のファンなら、尚更でしょうね。
そういう方々と知り合いだったりすると、「本当によかったね、おめでとうございます!」という気持ちになる。
でも…
一方で、心には暗い影がさすんですよね。
なんかモヤモヤする。
あるとき、Xの投稿を眺めてて、"ある言葉"を見た時に気づきました。
"想いは必ず届く"
あー。。。
これかって、なりました。
その言葉は、真理かもしれません。
でも、誤謬であるかもしれません。
「想いは必ず届く」なんて、
ときメモで「222イベント」や「女々しい野郎どもの詩」の流れるバッドエンディングを経験したプレイヤーなら、そんなことはないと 知っているんですよ。
3年越しの気持ちを伝えられなかった見晴ちゃん。
3年かけて好きな娘に告白してもらうために努力した主人公。
でも、その想いは届きませんでした。
届いたかもしれないが、実を結ばなかった。
そういう世界線があるんですよね。
選ばれた人
選ばれなかった人
届いた人
届かなかった人
届けられた人
届けられなかった人
実を結んだ人
実を結ばなかった人
その違いはなんなのだろう。
勇気なのか
熱意なのか
タイミングなのか
私は、ときメモ30周年ライブで、溢れんばかりの想いを伝えたかった人を知っている。その人は、熱意だけは持っていた。
でも、ふとしたことで空回りし続けて、その想いは消えてしまった。
そして、「ときメモから距離を取ろうと決めた」、ということを聞いた。
悲しかった。
幸い、"最後の想い出"かどうかはわからないが、ライブ会場には来て笑顔は見せてくれていた。
また、当初の予定からは随分と規模は小さくなってしまったが、"想い"を伝えるモノを用意してきた。
私はその"想い"の詰まったモノを受け取り、そしてその"想い"を演者さんの"プレゼントBOX"に投函した。
"想い"は届けた。
そう思って行動した。
それだけで満足できた…はずだった。
だけど
ものすごい形で、想いが届いてた人たちが居た。
羨ましいと思えるほどに。
そしてふと考えてしまう。
"コノオモイハ、アソコマデノセイカガダセルノカ"
そんなこと、考えたって仕方ない、比べたって意味はない。
でも、一度出てきた"暗闇"は私の胸を閉ざしていく。
何だかなあーと思いながら、センチメンタルジャーニーな気分で
ときメモ30周年目の2024年5月27日が来るのを待ち望む。
おまけの席子ちゃん
アンニュイな気分で描いた席子ちゃんのイラスト。
もしも、彼女が主人公に"恋"をしていたとしたら、"ときめきメモリアル"の世界の中では、彼女は常に"想いが届かなかった"人になるのだろう。
願わくば、彼女が幸せになれる世界線が、いつか出来て欲しい。。。
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