嫌いなことを語ることについて

 結論を先に記す。嫌いなことについて考えることは自らが考える最善の事象について有益になることもあるため、必ずしも思考から外すべきことではない。

 嫌いなことを語ることについて、多くの場合それは「どのような状況、立場であってもこれは否定されねばならない事象である」という態度でなされることが多い。しかし、人間一人が体感できる事象はこの世すべての事象に比べとても少なく、一つか二つ、せいぜいいくつかの立場を総合した立場からしかものをいうことはできない。故に別の立場を持つ人間からは見当違いのことを話している。と扱われるし、その見識不足とその見識不足を自覚していない身の程のわかっていなさから他者から非難されることとなる。

 しかしだからと言って絶対に嫌いなことを語ってはならないというわけではない。

 嫌いなこととは自分が最善だと思うことの反対でもあるからだ。嫌いなことが何か。それがどのようなものか。それらについて事実を収集し、自分の中でこういったものである。と落とし込むこと。その際に「自分はそのようでないものをこそ最善だと考えている。故にこれを嫌う」といった形で自分の主張の出発点である立場を固めることにつながる。

 現実にある事象は自分の考えにある最善からかけ離れていることは多い。だが人間の思考は現実にある事象を引き金にして行うものである。そのために最善でないものを引き金に思考を行うことが最善とは何かを知るきっかけになるのだ。故に最善を知るための砥石として嫌いなことを語ることはできるということである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?