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解けない謎はトイレに置き去りにされたまま。

「わたしとべんきと、ときどき。」
本当のところタイトルにすごくすごく迷ってしまった。
それほどこれから綴る現象は長い期間わたしの心を乱し続けてきたし、なんてことはないたった一つの出来事なのに様々な角度から物事をとらえることの大切さを教えてくれた大事な出会いでもある。

この現象に出会ったのは確か小学3、4年生の頃。
小学校生活の中の代わり映えのしない日常の中で使い慣れたトイレに向かい、いつものように空室を表す青いマークを確認してドアを開くとヤツがいたのだ。
漆黒の、ヤツ。
そう、ヤツの名前は「一本グソ」
(以下うん〇とする)
見事なまでの、しっかりしたうんこが和式の便器に威風堂々と横たわっていたのである。

たかだか人生8年、9年しか生きていない当時のわたしは”流されないまんま便器に横たわるうん〇との突然の邂逅”に正常な判断やらを奪われてしまい、数十秒ほどうん〇を視界に入れたまま絶句してしまった。
我に返ることができたのはうん〇から解き放たれる鼻を突くような臭いに脳がキケン信号を送ってきたからだ。
「ココカラニゲロ!」と。

その場に人がいたのかいなかったのか正確なことはもう覚えていないけれど、わたしはそのうん〇をどうするでもなく、別の安全で違和感のない個室にて目的の用を足しドキドキする心臓を抑えつつ次の授業を受けた。
ただその邂逅によってわたしの脳みその一部には特別な皺が刻まれ、その後10年20年、現在に至るまで「未解決事件」として新鮮な状態でまだわたしの心を震わせているのである。

それでも普通に考えてあの光景はあんまり思い出したくないのが本音。
だからこの辺で20数年わたしの心をふいに乱してくる「流されないままのトイレのうん〇」についての考察を文字にまとめて成仏させようと思い立ちこのnoteを書くことにした。

とりあえずここまでで思いつく疑問は4つほど。(少な!!!)

  • なぜすぐに他の人に話さなかったのか

  • 和式便所で流し忘れることがあるのか

  • そういう性癖の人間なのか

  • 見えない何かに試されているのではないか


1.なぜすぐに他の人に話さなかったのか

モヤモヤした疑問は一人で抱えるよりも誰かに話して一緒にその理由を考えたほうが色んな見解を聞けるし、長く悩んでいたことでもストン!と腑に落ちたりする意見をもらえたりする。

だけどわたしはずっと便器に横たわるうん〇について誰にも相談できずにいた。

当時を振りかえると(これも本当に謎なんだけど)「トイレでうん〇をすることはタブー」とする大衆意識が強かったように思う。
トイレでうん〇をすることを非国民だ、まではいかなくとも「なんて破廉恥!」「節操のない」「異端者」と捉える人間が少なからずわたしの周りにいた。
そしてうん〇の臭いを嗅ぎつけては「号外!号外!」と声高らかにその臭いの原因者を特定しようと魔女狩りのようなことをする無礼者もいたのだ。

当のわたしはそんな意見こそ悪!汚物であるうん〇を身体にため込むなんてそれこそ汚いだろうよ…というマインドを持っていたので学校でうん〇は当たり前に素早くひっそりとしていたものだ。

と、話がそれてしまったけれどそんな風にうん〇をすることに対して厳しい目が向けられる幼少時代、「実はトイレに流れてないうん〇があったんだけど…」なんて誰かに話せばすぐに恐怖の魔女狩りが始まってしまうのでは?と怖かったのである。

「もしかしたら形跡を残したのは大切な友達の誰かかもしれない」

「流さずに放置してしまったわたしがことを大きくしてしまったらせっかく気持ちよく用を足した人物は今後うん〇をするということが怖くなってしまうのでは?」

…そんな気持ちがよぎって当時誰にも言うことができなかった。
(こう書いてるとなんてわたしって優しい心を持っているのだろうと思っちゃうね!)

あと純粋にうん〇の話を親身になって聞いてくれる人が少ないって問題もある。残念無念。

2.和式便所で流し忘れることってあるのか?

そう、もうこの一言に尽きる!
和式便所をご存じの方はお分かりだろうが、うん〇もおしっ〇も出したら見える!!!視覚的に絶対に目に入る!
いや、目をそらすことは天井を見上げていない限りほぼ不可能なのが和式便所の変えられない法則の1つ。

そむけられないモノがそこにはある!!!
それがッ!和式便所ッ!!!

(大きい声でッ)

洋式なら百歩譲って流し忘れるということはある!
(わたしも1年に1回2回ほど流し忘れることがあるからさ。え?私だけですか???)

それに洋式では意識してのぞき込まないと出したものは見えないからね。多分。便座のフタを閉めちゃって流し忘れたりすることもあるだろうし。
※個人的にその日のコンディションを確認したいからわたしはしっかり排出したものは見ます!

なので構造上の問題でも和式で流し忘れるって相当急いでいたのか、もしくは用を足した後個室を後にするまでずっと天井見上げていたか…
はたまた超考え事をしていた、とか?
どっちにしろうん〇なら臭いで気づけよ!って突っ込みたくなるところではあるけれども。

3.そういう性癖の人間なのか

この疑問は大学生の時にうん〇を食す方がいらっしゃるということを知ってさては?と頭によぎった考えなのでけれど。

ここまで書いてあれだけど、実は「和式便所+うん〇=流してない」の現象に出会ったことが3回くらいある。
しかもそのうち1回はトイペ(トイレットペーパー)を使った形跡が皆無という徹底?ぶり。
これはマジで謎が謎を呼びすぎてわたしの人生の3大ミステリーにしっかりくっきり刻み込まれ今後その地位を何かに譲ることが無いように思う。

あまり出会うことがないモノゴトに3回も出会えば人間恋をしてしまうのが世の常。
(そんなことはない)

でも3回も出会えばちょっと考え方も変わるわけで。

もしかしてこれはワザと…誰かに自分の存在を見せつけるために ワ ザ と 置き去りにしているのではないか?

「自分のうん〇を第三者が見つけたとき”どんな表情をするのか”って想像にエクスタシーを感じる人間がいても別段おかしなことではないな?」

なんて考えも持てるようになるわけで。

この線、十二分にあり得る!
現代のSDGsの多様性が叫ばれている前から多様性を発信しているツワモノがいたのかもしれないなぁなんて、ね。

4.見えない何かに試されているのではないか

その昔、国語の教科書でとある男の子が地球儀を覗いていて。
その地球儀の中ではちゃんとたくさんの命が自分と同じように生活をしていて。少年はその命の営みを興味津々で見ていたらふと自分も誰かの視線を感じて振り返る。
みたいな話を読んだ気がするんだけども。

そういう見えないけどいるかもしれない大きな存在に試されていたのではないか、と考えたりする。

「この流されていないうん〇をこの少女(わたし)は果たしてどう対処するのであろうか」

そういう人間ではない何か達のパーティーゲームにたまたまわたしが選ばれてしまったのではないか。

「最初の邂逅から数年たったからもう一度試してみよう。果たして人としての性質に変化はあると思うか?」
「「それ見たことか。流さないに賭けた我々の勝ちだ。」」

「3度目の正直でもう一回試してみよう。」
「なに?まさか流しただと?」
「ながしたとはなぁ~」

なんて感じでさ。
ベンキとトイレのカミサマ達の暇つぶしに付き合わされてたのではないか、って感じで。

もしくは便器の念に引き寄せられたか。

あながち間違いでもない気がするんだよな。
さすがに3回目に流されないままのうん〇見たときは「今度こそ流さないといけない!」って衝動に駆られて流したもんな。
神様は居るようで居ないけど、たまにいる気がするしさ。


以上4つ考察を終えて思ったのが…

やっぱり「和式便所+うん〇=流さない」答えとして一番有力なのは性癖説、もしくは何かに試されていた説が有効だな、と思いました。
だって目に見える以前に、和式トイレでうん〇をしているのに流し忘れなんてしないでしょう。

初めて出会ったうん〇も次の休み時間には流れてたんだよ?

故障中だったら仕方ないだろうけど。
不可抗力だからね。


しかしまぁ、こうしてこの事象についてこうして書き連ねてみるとやっぱりますますわたしの脳では推理しきれない”本当の答え”が隠されているのではあるまいか、と思えてくる不思議。


はたしてわたしがいつか見た、便器の上の答えにたどり着く日は来るのだろうか。

一度きりの儚い人生が終わるまでにぜひとも「和式トイレでうん〇を流さない人」と直接その真意について語り合いたいものである。

おしまい

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