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心配されて窮屈に感じてしまうとき

精神的にしんどいとき、友達や知り合いたちに少し話を聞いてもらおうと思うが、同時に「こんな状態だと、また誰々さんに『あなたには支えてくれるパートナーはいないの?』って心配されてしまうな〜」と予想してどんよりした気持ちになり、結局「しんどい」と言い出せなくなってしまうことがある。相手が純粋に心配してくれてると分かっているのだが、それでも自動的にプレッシャーを感じてしまう。

主な理由は三つ考えられるが、根源は、幼少期にネガティブな感情を吐露したとき、母親に充分寄り添ってもらえず、むしろ酷い目に遭わされた経験であろう。

より詳しく説明してみよう。


理由1 「黙れ」と言われたという勘違い

「あなたの状況は大変だね、支えてくれるパートナーはいないの?」
こんな言葉を、純粋な思いやりから私にかけてくれる人がこの世にいることに感謝している。
にもかかわらず、私はこの手の優しさを受けいれる方法がまだ確立できていない。

その理由は、幼少期に母親から「文句を言うな、黙れ」「いつも機嫌良くしていろ」と、ネガティブ感情の吐露を拒絶・否定された経験がものすごくたくさんあるからだ。

これはこれまでnoteで書いてきた中で最もきついくだりである。私はいま書きながら幼少期の恐怖を再度体験している。

例えば、小さい頃、母親に連れられて電車で出かけることが何度もあったが、私はいつも通りでいられないことが多かったようだ。電車や行き先が未知の世界ゆえ不安だったのかもしれない。母親はそれを「不機嫌」と表現するようになった。彼女も幼い私を表面的には慰めようとしたりするのだが、いつまでたっても私の機嫌が良くならないと怒り出す。それが繰り返されると、すぐ「また不機嫌か」と怒られるようになった(そのような叱責から始まる言い合いのことは「喧嘩」と呼ばれた)。そういう経験が積み重なって、最初からネガティブ感情を出さないように、自分の感情を認識しないことを自然と心がけるようになったのだろう(アレキシサイミア傾向)。
後日談だが、大人になって、不機嫌じゃないときにも親から「機嫌を直せ」と言われて頭を叩かれたりしたので、これは親の方がどうやらおかしいと分かった。やばいよな。

昔の私が親にしてほしかったことは、「知らないところに行くのが怖いかな?」「電車に色々な人が乗っていて落ち着かないかな?」と感情を一緒に探したり、当てはまる感情を私が見つけるまで気長に待つことだったのだろう。

親の事情は知らないが、予想すると「母子家庭の経営が大変で弱音も吐けないのに、娘は我儘を言って好きなだけネガティブな感情を発露させていてずるい」というような発想だったんじゃないか、本人に自覚はなくとも。

ああ、ただの回想なのにめっちゃきつい…。

そういうわけで、以下のようなおかしな思考回路ができてしまった。
「大変だね、パートナー持たないの?」
→他人が自分を心配している!
→自分のせいで彼らの気分を害してしまった!
→早く彼らのネガティブ感情を解消しないと怒らせてしまう
→そのためには、①悩みがないことにするか、②もうパートナーがいるので大丈夫と思わせるしかない

私の性格ではこの場合、②は自分の望みに合致せず非現実的なので却下し、①に取り組む。今後は心情吐露をせず、感情は一人で秘密裏に抑圧・処理せねば、というわけだ。

というのも、そもそも私はネガティブ感情を見せてはいけない汚物だと思い込んでいるためそれを人前で隠蔽する癖がある。そんな私が心情吐露してる時点でその相手の信用度は高いといえる。しかし、それで心配されると、自分の悩みを悪いことだと捉えられた感じがしてしまい、「やはり仲のいい人でもこれを言うと不快にさせてしまうから、もう言うのはやめよう」となる。
このように感情の抑圧を繰り返していると、とてもつらくて人に話や感情を聞いてほしいとき、他人に自己開示したくてもできなくなる。悩みが悩みを生む…。

余談。以前Twitterではネガティブ感情を少し曝していたが、フォロワーに心配されて窮屈に感じてしまったので最近は控えている。そもそもSNS論として、愚痴は控えた方がいいというのはよく言われることだ。私にとっては、人間相手にネガティブな感情や思考を見せても否定されないでいられる、という点でTwitterの居心地はよかったのかもしれないが、見る人のダメージを考えればやはり汚物は隠すに限るのだろう。

理由2 干渉されたという勘違い

「支えてくれるパートナーはいないの?/持たないの?」
といった言葉はとてもありがたいが、その反面、窮屈に感じてしまい、どう反応していいかわからなくなることもある。なぜなら、自分のトラブルを解消するよう勧められている感じがして、干渉されたように錯覚するからである。まだうまく説明できないが。

そのときの自分の気持ちは、例えば以下のようなものだ。

  • ふーん大変だったねと、日常的なこととして扱ってほしい。そのくらいの困難に向き合うのはいつものことなので。

  • 何かしてくれるのであれば、一緒にいる時間を楽しいものにしてほしい、それが私のネガティブ感情の解消に繋がるから。

  • 今日はあまり元気がないよと表明したかっただけ etc.

常識的には、「それでは根本解決にならない」とか「心配されたくないなら愚痴を言うな」ということになるのかもしれない。ただ、こちらは話を否定せずに受け止めてほしいだけで、心配されるのは予期していなかったのだ。
書いてて思ったんだけど、これって「女は共感を求めがち」みたいな俗説に回収されそうで怖いな。

そもそも、相手の人たちが、私を主語にして言うからこっちも反応しづらいというのもある。彼らが「自分だったらそういうときパートナーに側にいてほしいなぁ」とか言ってくれれば、多分そんなにプレッシャーは感じない。

要するに、私は彼らにそっと見守っていてほしいだけなのだろう。彼らも発言にそこまで深い意味は持たせているとは限らない。悲しいミスコミュニケーションにならないように気をつけておきたい。

理由3 受け止めてもらえた実感の欠如

理由2にも関連して。
心配されるとき、「こいつはまた何かネガティブな気持ちになっているらしい、大丈夫か」くらいにしか思われていないなと分かることもある。こう、一生懸命説明してるのに聞いてもらえない状態は結構きつい。言葉をもってしても埋められない深い溝を感じる。

理想としては、私の思考「AがBなのはCゆえ問題だ」を文字通りに「そっか、あなたはAがBなのは問題だと思ってるんだね」と受け止めてほしい。せめて「問題があるんだね」「あなたの考えは妥当だと思うよ」くらいの反応(雑な同調でいい)がほしい。
だが、たまに感情にのみフォーカスされて「病んでる?大丈夫?」「つらい気持ちが伝わってきた」などと言われ、釈然としないことがある。話題によっては、せっかく時間をかけて自分の思考を言語化したのにその部分がほぼ無視されたな〜、と非常に虚しくなる。

幼少期に養育者にたくさん寄り添ってもらえた人であれば、自分で自分の感情や思考を受け止められるから、多少は他人に受け止めてもらえなくても平気なのだろうか?違うだろうか?みんなどうやって一人で抱えきれない内面のものを処理しているのだろう。芸術とかに昇華しても、問題の根本が解決しないといつまでも癒されない気がするのだが。

余談だが、マンスプレイニング的な「この女は訳のわからないネガティブなことを言っている、混乱しているに違いない、落ち着かせよう」みたいな反応にも直面したことがある。私は問いたい、「本当に混乱しているのは、私の文章・言葉を理解できないあなたの方ではないか」と。私の文章・言葉が完璧だとは言わないが、とにかくこういうのはマジで頭にくるのでやめてほしい。

まとめ

心配されると自動的に窮屈に感じてしまう理由は、今日の整理の時点では、以下の通りである。

  • 「黙れ」と言われたという勘違い
    …ネガティブな感情は汚物だという思い込み

  • 干渉されたという勘違い
    …問題を解決しろというプレッシャーの幻想

  • 受け止めてもらえた実感の欠如
    …思考も認めてほしいという欲求

ゆくゆくはもう少し整然とさせたいが、ここまで自分の状態を言語化できるようになったことは大きな変化であると認めておこう。言語化できたとはいえ、肝心の日本語が全体的に変で読みづらいことをお詫びしたい。

ところで「心配かけたくない」という発想自体は、この文化圏で割と一般的なはずなんだが、私の反応があまり理解されない(主観)のは何故なんだ…。

あとは例えば、パートナーがいれば他の人に重い相談をしなくて済む、みたいなパートナーシップそのものに関わる点には今回触れられなかった。自分の性的指向がAスペクトラム(他人に恋愛感情と性的魅力を感じにくい部類)だからか、家庭環境が苦しかったからそうなったのかは鶏卵問題だが、とにかく、人と人がすごく親密になるということ自体にピンときていないかもしれない。

いずれまた。

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