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祖母からのメッセージ


今年の春頃から、我が家はトラブル続きでした。
自分の怪我、体調不良、息子たちのトラブル、怪我、体調不良…
こうも続くとさすがに私も疲弊します。

心配してくれた知人がある方を紹介してくれました。

今回はそんな話です。

忘れていた思い

少しスピリチュアルな話になります。
最初は厄除けの意味を込めて、パワーストーンでブレスレットを作っていただきました。
その方にお会いしていろいろ話をしているうちに、もう少し詳しく私の背景を見たいと仰り、日をあらためて再度お会いすることになりました。


そして約束の日
霊視ができるというその方は、意外な人からのメッセージを伝えてくれたのです。


ずっと忘れていた記憶

子どもの頃に会ったきりの祖母からのメッセージでした


子どもの時の記憶

父方の祖父母の家は大分県竹田市にありました。
滝廉太郎の「荒城の月」のモデルとなった岡城跡が市内にあります。

祖父母の家は竹田市の中心部から離れ、山の中にありました。

子どもの頃、実は祖父母の家に帰省するのがものすごく苦痛だったんです。

夜に広島の宇品港からカーフェリーで別府まで向かいます。
必ず船酔いするのですが、逃げ場のない船の中。一晩中吐きならがひたすら耐えるしかないのです。

早朝、別府にようやく着いても、ここからまだ苦行が待っていました。
車で山道をクネクネ上っていくので、また酔うのです。

もうつらくてつらくて…

どんどん山道を行くと、いくつかトンネルを抜けて行くのですが、最後の1つはきちんと整備されてない、ただ山をくり抜いただけのような、なんなら上から木の根がたれ下がっているようなトンネルでした。

いつか崩れないんだろうかと、子どもながらにハラハラした覚えがあります。


そのトンネルを抜けると、右手に小さな山があり、その上に鳥居が見えてきます。
そこには古い神社がありますが、訪れる人はほとんどいない神社です。

トトロでも出そうな…そんな雰囲気でした。

そのふもとを車で行くと、祖父母の家が見えてきますが、このあたりになると道路も舗装されておらず、車1台通るのがやっとです。

でもこの先は祖父母の家しかなく、周りに他の家もないので、他の車とすれ違うことはありません。

しばらく行くと右手には畑、左手にはただただ広い空き地になります。
この空き地は春には一面ピンクのレンゲ畑になるのです。

この辺りはもう祖父母の敷地内で、ここから山の方までが祖父母の土地だと聞いています。

船酔いと車酔いでヘロヘロになりながら、あと少しのところで、この手前の畑まで毎回祖父母は出てきて待っていました。

多くて年に1回、しばらく数年空くこともあり、なかなか帰れないので、たまの帰省は祖父母にとって楽しみだったんだと思います。


いつも畑で待っていて、車が見えると家の前までゆっくり移動していきます。

車から降りたら、祖母は私の具合の悪いのはおかまいなしに、「よう来た、よう来た」と手を握ったり、肩をさすったり…

そして必ず私と妹の名前を間違えるのです。

祖父はそんな光景を黙って後ろから微笑んで見ているだけでした。


田舎での暮らし


祖父母の家で暮らす数日は、私にとってはあまりにも退屈で、決して楽しいとは思えませんでした。

あまりにも田舎すぎたのです。

近所の家も見当たらないくらいなので、当然周りにお店らしきものはありません。
ひたすら畑と山とレンゲ畑です。
帰省中行くところもなく、ただ退屈に時間が過ぎる。

当時既に築100年近く経っていた祖父母の家は、私にとっては不気味で怖かったのです。

そこだけ時間が止まったような、昔話によく出てくるような家。

土間があり、かまどが2つあり、
お風呂とトイレは離れにあり、それだけで夜にトイレに行くのが怖かったのです。
離れのお風呂の隣は、なぜかペットのイノシシ小屋。
犬は常に5、6匹飼っていて、祖父母にしか懐かない犬たちは近づくとものすごく吠える。

天井はやけに高くて、私たちが寝る部屋にはなぜか能面がいくつか掛けられてて

車の音すらしない夜は虫とカエルの声だけ。
静かすぎて落ち着きませんでした。


高齢の祖父母は車も運転しません。
近くに店もないので、野菜はほぼ自給自足です。

米や肉、魚などはいろんな人が入れ替わり立ち替わり持ってきてくれていたようでした。
大分の田舎から京都大学に行った祖父は地元ではずいぶん尊敬されていたと聞いたことがありますが、実際現役時代に何の仕事をしていたのか私はわからないままでした。

祖父母での食事は普段の私たち家族の食事とはあまりにも違い、偏食気味だった私にとって苦痛でもありました。


ほぼ毎日、イノシシ肉でのすき焼き。そして馬肉。
猟もする祖父が捕まえてきた、タヌキやウサギ、ヤマバトなど、私はあまり好きになれなかったのです。


今考えると祖父母の精一杯のもてなしだったはずだし、貴重な体験だったはずなのに…


父は5人兄弟の長男でした。
兄弟は皆、竹田からは遠く離れて暮らしています。

帰省中にたまに親戚が揃うと、とても賑やかになりました。


しかし、人見知りが激しかった私にとってこれはとても苦痛で、たまにしか会わない親戚は他人同然で話をすることもできず、みんなと離れて1人でいることが多かったのです。


私とは正反対の愛嬌のある妹は誰からも可愛がられました。
一度叔父が
「みおちゃんは妹ちゃんと違って、愛嬌ないなぁ」
と言った言葉にひどく傷つきましたが、言い返すことなんかできません。

黙って聞こえないふりをしていました。


私が中学生になり、祖父母の家に行くことはなくなり、
中学を卒業した春休みに、これが最後かもしれないと帰省したのが、本当に祖父母の顔を見た最後となりました。


長男の誕生と祖父母との別れ

時が過ぎ、私が結婚することになり招待状を送りましたが、年齢的に広島までは遠くて行けないという返事が返ってきました。

その後、私は札幌に引っ越し、長男が生まれます。
電話で報告をすると、それはもうとても喜んでくれました。

長男の写真をカレンダーにして送ったり、お宮参りなどの写真もたくさん送りました。
電話はいつも祖母からで、
「写真は全部飾ってるんよ。もう飾るとこがないくらい」
とケラケラ笑っていました。

寡黙な祖父が電話に出ることはありませんでしたが、年賀状などで短いけど達筆なメッセージを読んで、あー元気にしているんだなと思っていたのです。


そうして長男が生まれた翌年、1995年の8月。
2人は老衰で、ほんの数日違いで亡くなりました。

最後まで仲良く一緒に逝ってしまったのです。


父から連絡があったとき、
「みおはまだ子どもが小さいし、遠いから帰って来なくていい」
と言われ、私はそのままその言葉通り、葬儀にも出ませんでした。


それ以降、墓参りもすることもなくほとんど祖父母のことを思い出すことはなかったのです。


その後、父も高齢になり、大分には親戚もいないし、墓参りが遠くてつらいということで墓じまいをしたとだけ聞きました。


祖母の思いと家族のこれから

今回、霊視ができると言った人は、そんな祖母の話を突然しました。
もうほとんど思い出すことがなかった祖母のこと。


「おばあちゃんがね、寂しがってるよ」


びっくりしました。
びっくりしたのと同時に、確かに一度もお墓参りにも行くこともなく、思い出すこともなかったことへの罪悪感で胸がいっぱいになりました。


今はもう墓じまいをしてしまいましたが、父方のお墓はお寺の墓地のようなところではなく、家の敷地内にありました。


霊視をしてくださった方は、私が何の説明もしてないのに
「おばあちゃんの家を出て、裏手に山に登る道があるよね。
登って行く途中にちょっと開けたところがあって、そこにお墓があったでしょ?
いくつか墓石が見えるけど、隅っこにただ石を積んだだけのお墓も見えるけど、誰か小さい子のお墓かしら?」

それは6歳で亡くなった父の兄のお墓でした。
先祖代々のお墓になぜ一緒に入れてあげなかったのか、私にはわかりません。

一度父が
「ちゃんとお墓を作ってあげないとな」
とボソッと言ったことは覚えています。


そんな話をした後、その霊視をしてくれている人は
「おばあちゃんはずっとあなたに会いたがってたみたいよ。小さい頃、本当に可愛がってもらったんじゃない?
お母さんから怒られてビクビクしているあなたをずっと気にかけているおばあちゃんが見えるわよ」


ああ、そうだった!
本当に忘れていた昔の記憶。

急にいろんなことが思い出されてきました。


不便な祖父母の家への帰省は、母にとっても苦痛だったようで、母はずっと不機嫌でした。
以前も書いたことがありますが、私と母はあまりいい関係を築けないまま今に至っています。
当時は母の機嫌を損ねないように、自分の感情すら押し殺していた私の子ども時代。
それでも帰省中に母のイライラが私に向けられることはよくありました。

親戚の中でも孤立しがちな私を祖母はよく土間に呼んで、
「料理を手伝って」
と言っていました。

実際に祖母についていくと、手伝うことなんて何もなく、ただ祖母のおしゃべりの相手をするだけだったのです。
珍しい田舎の料理は、とても小さい私が手伝えるものではありませんでした。


ある時、法事の前の慌しい中で、母にひどく叱られたことがありました。
何で叱られたのか今では理由すらわからないのですが、とにかく母は不機嫌でした。

私は泣くこともなく、黙って俯いて母の罵倒を聞いていました。
そこに祖母がやってきて、
「こんなに怯えてるのに、もうやめなさい」
と母に言ったのです。

祖母が母にきついことを言ったのはたぶん初めてだったのではないかと思います。

その後、いつものように
「手伝って」
と祖母に土間に連れて行かれました。

土間ではお客さんに出すお饅頭を祖母が1人で作っていたようです。
「みおちゃんも丸めてごらん」
と言われ、いくつか作りましたが、不恰好でとてもお客様に出せるようなものではありませんでした。

それでも祖母はニコニコ笑いながら上手上手と褒めてくれ
「みんなには内緒ね」
と、こっそりその場で食べさせてくれたのです。


きっと祖母はずっと私を見てくれていたんだと思います。祖母にとって初孫である私の心配をずっとしていてくれていたのかも知れません。
感情表現が下手くそな私は、祖母の話を一方的に聞くだけで自分からはほとんど話をした記憶がありません。

あの時そっとお饅頭をくれた時も「ありがとう」の一言が出ませんでした。


そんなことを思い出し、急に後悔が押し寄せてきて涙が自然と出てきていました。
何でちゃんと「ありがとう」を言わなかったんだろう。


それから更にその方と話をしていくうちに、私は自分の家のこと、家族のことを何も知らないことに気付きました。


・祖父はどんな仕事をしていたのか
・墓じまいをした後、遺骨はどうなったのか
・おそらくどこかのお寺さんにお世話になっているはず。そのお寺さんはどこなのか

これらのことを何も知らなかったのです。

家のことはいつも父が独断で進めてきていて、私からあえて聞かない限り、父も話をすることはありませんでした。

気にはなっていたけど、父に聞いたところでどうせ
「お前は知らなくていい」
と言われるだろうし、ま、いいや、で済まして来ていたのです。
それくらい会話のない家族だったのです。

その話を聞いて、その霊視をしてくれた方は呆れていました。

高齢の両親もそう遠くない時に亡くなる時が来る。
その時あなたはどうするの?


父は娘たちの世話にはなりたくないと、母と2人で献体登録していました。
亡くなった後、大学病院の医学生の研究のために自分の体を提供するというものです。

だから葬儀もしなくていいし、研究が終わって半年後、遺骨の一部が返ってくるだけだからと。

私は詳しい話も聞かないまま、言われるがまま同意書に署名をしました。


いくら献体登録といっても、いつかは遺骨が返ってくる。
その時その遺骨はどうするつもり?

そう聞かれても何も答えられませんでした。

考えないようにしていただけかもしれません。


そういうこと全て含めて、おばあちゃんはあなたの心配をしているわよ。
一度ちゃんとお父様とお話しなさい。


その後やっと初めて、父と電話で今後のことについてきちんと話ができました。


祖母が亡くなって30年近く経ちますが、その間ずっと何かしらのメッセージを送ってくれていたのかもしれません。
きっともどかしい思いで私を見ていたんでしょね。

離婚のこと、子どもたちの病気のこと、無茶をする私のこと…


両親ともいい関係が築けないまま来たことも気にかけてくれていたのかもしれません。

スピリチュアルのこととか、霊感とか、
信じる信じないはそれぞれだとは思います。

私もどこまで信じていいのかはわかりません。

でも今回のことで、長く見過ごしていた家族の問題にちゃんと向き合うきっかけになったのは事実です。


「燦燦」に込めたメッセージ

燦燦/三浦大知
https://youtu.be/UPz_XYOGQMw


ふとそんなことを思い出し、今回は三浦大地さんの「燦燦」を弾かせてもらいました。
2022年にリリースされたこちらの曲はNHK連続テレビ小説の主題歌になっていましたね。

三浦大地さん自身が亡くなったおばあさまに向けた手紙のようなバラードになっています。

自分にとっておばあちゃんからもらった光というものは、今でも燦燦と降り注いでるなっていうふうに思いましたし、うちのおばあちゃんが、美空ひばりさんの『愛燦燦』がすごく好きだったんですよ。それでおばあちゃんのお祝いのときに歌ったりとかした思い出もあって、タイトルからもちょっといただいて、【燦燦】というタイトルにしようというふうに決めました。

https://www.j-wave.co.jp/original/tokyounited/archives/the-hidden-story/2022/06/17-104010.html


そして歌詞に出てくる「順光線」についてこう語っています。

「今でもそうだと思いますけど、おばあちゃんからもらっている光っていうのは、自分にとって何だろう?っていうのを考えたときに、自分が見ている景色とか自分が進んでいく、目の前に広がっている未来みたいなものを背中側から照らしてくれてる光なんじゃないかな?というふうに思ったんですよね。家族の光ってもちろん『頑張ってね』とか『応援してるよ』とかっていう目の前で言ってくれる言葉もあるかもしれないですけど、どちらかというと、やっぱり見守っている光だと思うんですよ。それはきっと、自分の目の前に広がる世界には光点っていうか、光ってる光点は見えなくて、自分の背中側からさしている光なんじゃないかなと思ったんですよね。なので、おばあちゃんから、もちろん自分の両親もそうですけど、母親も父親からもその光をもらってると思いますけど、家族の光、自分にとっての家族の光っていうのは、自分の背中側から、自分の未来とか自分の景色を見守ってくれている。その見ている景色を照らしてくれている『順光線』なんじゃないかなというふうに思って、この歌詞を入れたという感じでした。」

https://www.j-wave.co.jp/original/tokyounited/archives/the-hidden-story/2022/06/17-104010.html


歌詞の中に繰り返し出てくる『大丈夫、ほら見ていて』という言葉は私自身にも祖母から言われているような気がしました。
そんなこともあり、今回歌詞は全て手書きにさせていただきました。


そんな曲を弾いてみました。
大切なご家族のことを思いながら聞いていただけると嬉しいです。


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