小さな背中の大きな人

先日、山手線に乗った。

乗った瞬間に感じる違和感。
乗客の空気と異臭。
ひとりの男性が座って眠っている。
彼の上着は汚れている。
彼の横は2席空いており、彼の前に立つ人はいない。
私と一緒に乗り込んだ女性は「くさっ」と言って車両を変えた。

たしかに物凄い強い臭いで、介護の現場に行っておりこの臭いに慣れているはずの私でも吐き気をもよおした。


私に、何が出来るのだろうか。


寝ている彼の手から杖が落ちた、拾いに行こうと思ったが勇気が出なかった。

すると、立っている私の斜め前に座っていた外国人男性が杖をとり彼に差し出した。
彼は目を開け「ありがとう」と微笑んだ。


私に何が出来るのか、


なぜ杖を拾えなかったのか、


理由は沢山ある、怪しい人には近寄らない方が身を守れることを知っているから、突然刃物を取り出して無差別に殺す人がいることをって知っているから。
私の理由は、臭いとかみんなの前で恥ずかしいとかよりも、怖かった。

でも彼が「ありがとう」と微笑んだ顔を見て後悔した。

別に怖い人じゃない。
怖い人じゃなかったのに。

自分が恥ずかしくて嫌だった。

どこが日本人は優しいんだろう。誰も彼に手を差し伸べない、差し伸べるどころかみんな彼から身を引いている。唯一手を差し伸べたのは、どこの国から来たのか分からない日本語以外を喋る男性だった。

強くていいなと思った。優しくて羨ましいなと思った。

なんで私はこうなんだろう。



わたしはマザー・テレサを主題にしたミュージカルに出演したことがある。
彼女の強さや愛や優しさ、生き様に感銘を受けたし、それらを歌詞にして歌でお客様に届け、舞台上と客席とでその愛を共感し合うあの空間はとても好きだった。

マザーは、自分はイエスの小さな鉛筆に過ぎない、イエスの為にやるべきことをやっているだけだと話していた。

そして貧しい人を助ける為に人生を費やした。

貧しい人を救うのは沢山の食べ物ではなく、あなたが分ける半分のパンとあなたの微笑みだと話した。


私は先日の山手線での出来事で自分が出来なかったことについて考えていた、ずっとマザーのことを考えていた。

私は無宗教だが、マザーはそれは大きな問題ではないと話していて、あなたが出来ることをしなさいと言っていた。そしてマザーの言葉を求めて本を読んだ。彼女の言葉を読んだ。

『あなたの中の最良のものを世に与えなさい』

『思いやりの気持ちがなくて奇跡を起こすより、思いやりの気持ちがあって失敗するほうがいい』

『小さな行為が大きな喜びをもたらす』


私は出来なかったことを悔いる思いと救いを求めるような思いで読んでいたけれど、彼女の勇敢な行動は自分の小ささを露呈するばかりだった。

それでも

『今まで一度だって命がけでなかったことはないのです、そうでなければ道は開けません』
と話す小さい体にはとてつもなく大きな愛があるんだと感銘を受ける。彼女だって命がけだった。小さな1人の人間なんだと思い知らされる。

そしてその本の最後には

『苦しんでいる人がいることを知っているだけでいいのです』

『身近なことから始めたらどうかしら』

という言葉で締めくくられていた。

図書館で思わず涙が溢れた。やっぱりそうなんだ、やれることをやるべきことをやっていこう、愛を持って。そう教えてくれた。また教えてもらった。


私の出来ることをひとつひとつ。

明日もがんばろう。

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