やりたい事を汚したくないだけなの

湿った生温かい風と鼻のむずむずと纏う衣の変化に春を感じる。肌で感じる、というやつ。

今年の桜をめでる機会は設けられず、でも今目の前で花びらが舞っていて、今年も桜が終わったんだなとあぁ綺麗だなの反対側の気持ちが同時にあって、そういうのがなんだか切なくて、その切なさが季節の変わり目の合図なのかなと考ている。

感じる。春を。

新しいこと。をスタートすること。

春。

新しいことに関わることになった。

関わることはいい事なんだと思う、悪いことにはならないと思う。曖昧ではある、不確かでもある。けれども私はいい事だと思う。

、、、曖昧だ、、、
その曖昧さ故に不安はあるけれど、どんな事もスタート時には不安が付き物だし、少なからずあの人やこの人の為にはなっていて、少なからず誰かの役に立てることはいい事だ。そういい事なのだ。

なぜいい事なのに不安に思う?利害を考えているから?わたしは利害を考えてしまうことがある。わたしだけじゃないだろうけど。


昨日、専門学校時代の同期が出演する舞台を観に行って終演後に2人で呑めて『やりたい事とお金』について話した。そして今日、『「食えててすごいね」って言わないで』というブログを読んだ。真崎さんという方のブログ。このブログに今日出会ったのは何かの暗示なのかしら。

みんなそうだ。みんなそう悩んでるんだと思った。やりたい事がお金になればそんなにいい事はない。けれどお金に気を取られるとやりたい事が歪んでしまう。こんなに愛おしくて大切に育てたい'やりたい事'なのに、お金なんかに汚されたら可哀想だ。もちろんお金が大切で必要なのは前提でお金なんか、と言った。つまり必要以上のお金は後から付いて来ればいい、というだけのことなのだと思う。この手の人間たちにとっては。

売れたいとかお金欲しいとか、もちろんあるけど。そしてそのつもりでもあるけど。

でもそこが目的になるとなんか違う。売れたいと思い続けてきたけど、なんか違う、なんか違和感ってずっとおもってて。つまり手段であって目的ではないのだよ。

後から付いてくればいい、とさっき自分で発して自分で納得している。


素直になるって難しい。誰も見てないのに。誰も聞いてないのに。

うん、やりたい事にもっと焦点を当てて鮮明にしてやりたい事の為の道筋に光をあてる作業をしよう。

そしたら見えてくるものがあるはず。実際今日見えたものがある。それを掴む。自分の心の中を蠢くそれを掴む、この感覚。
この感覚がすき。掴む。掴んで離さない。

豊かな人になりたい。深い人になりたい。

だから表だけで判断したくない、利益だけを求める思考は持ちたくない。

芸術だから。それが人間がなせる芸術のはずだから。

でも綺麗事ばかりでは生きられない。けれど綺麗事を大切にしたい。

ちゃんといつか、どこかに道が続いてて、なんなら回り道してたとしても結果同じ道に繋がってたりするもんだと思うし。

楽な事ばっかりじゃないけどね。

でも春だしね、お天気だしね、いいことあるよね。


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