2022-2023.1.30memo

2015.2.14から少しずつ覚悟はしていたはず。
シーナさんが旅立って残されたこちらの世界で鮎川さんはロックやれる
だけやってシーナさんの元へ行くことに何の迷いもないだろうと。

私は心に決めた。
鮎川さんが少しでもこちらの世界にいることを楽しんでくれますように。と
いちファンがやれる事と言えばライブ行ったりSNSなどに書いたりするだけ
だったけれど、、、。

年々、加速するライブスケジュール
ステージにはシーナが待っていてくれるから。と。

2022.2
代官山のライブでのMC
シーナさんの話と共に、あちらへ行った人が増えてあっちが賑やかだよね
というような話。客席からは冨士夫!などの声が飛んだけれど、少し前に
Mちゃん(シーナさんの衣装を作っていた)のお通夜に鮎川さんは来てくれ
ていたのでそれも頭にあったのじゃないかなと私は思った。
で、鮎川さんが自分もそのうちそっちに行ってバンドやるぜ的なことを笑顔
で話したので、私は「え、まだまだいかないで」とざわつく気持ちになった
まだ病気発覚前だし、身体が辛いところがあったのかはわからないし、多分
鮎川さんも、なんの気もなく無意識に言った事だと思うけれど。
ただそれが何となく心に残り、鮎川さんがというより自分やダンナや家族に
いつ何が起きてライブ行けなくなるかしれないから、今まで以上に行けるだ
け行こうと改めて決めた。

5月2日

下北沢でシナロケとPLAY THE SONHOUSEの2ステージ3時間越えのライブ

74歳とは全然思えない誰よりも元気、ここにいるより誰よりも体力ある!
と本当に思った。

夏を越えた頃から、

鮎川さんVoの時、声が出ないなと思うことがあった。
でもなんだかんだ言っても74歳だしツアー続いてるし声も枯れるかも。
としか考えなかった。

ギター弾く時、ほんの一瞬、指が弦の上で戸惑う。
いつもギター弾くのをガン見している私、珍しいな。と。
それは鮎川さんもその瞬間を自覚しているように見えた。

長袖のシャツがやけにブカブカだと思った。
痩せたことに関しては、ライブずっと行っているとそこは感じにくくな
っていて映像や写真を見た友達から指摘されて、確かに。と思った。

11/23のライブ後、知人から鮎川さんの体調が悪いこと聞いた。
詳しいことは知らされなかったが察するものがあった。
広めないで欲しいとのことでダンナと2人で抱え込む。
でもライブ、全然いつもと変わらずパワフルでちょいちょいお茶目な
仕草もあったから現実味がなかった。

この「note」の作業に入る。
ただの自己満足なんだけど自分がどれだけ好きか、鮎川さんが元気なうち
に形にしておきたかった。
ファンになった当初は書き残してはいなかったし、ブログやfacebookに
書いたものも消去しているものが多く、全てではないけれど。

11月末の九州のラジオに恒例の電話出演は沖縄の公演先から。
宮古島までシーナが連れてきてくれた。と鮎川さんが話すのを聞いて
また気持ちがざわついた。
今までなら「シーナが先にステージで待っている」
って言っていたから。

12/4のロンドンナイト
結局、私が観た最後のライブ。
だけど本当に本当に体調のことなど微塵も感じさせない最高のロックだった
病気かもしれないけれど、暫く療養すれば大丈夫なのでは。
そう自分の中の不安感を毎日打ち消して行った。

最後のステージとなった12/19の京都磔磔は
配信で観た。
年明けの京都磔磔に行く予定にしていた。

持っていたこれまでを全て「note」に注ぎ込み、祈りを込めて次の更新は
リアルタイムでと記した。
次は京都磔磔のライブのことを書いて、upできますようにと。


NYRFのキャンセル。
最後なんて思うのも嫌だ、でも意識せざるを得ない年末。
年明けの大阪、名古屋、京都もキャンセルになったけれど磔磔は公演延期の
アナウンスだったので希望を持っていた。
いつになってもいい、まずは身体を優先で。と。

2023

友達が自分のfacebookに鮎川さんが「いいね」押してくれたと教えてくれた
ダンナが自分のfacebook見ている時に鮎川さんがオンラインになるのを
教えてくれた。
ロケッツウェブにアクセスしてトップページの
更新日を毎日何度も何度も確認するけれど
2022/12/20から動かない。

2/6の渋谷のキャンセル

夢を見た
お店の中にダンナと鮎川さんがいる、私は店の外に出て人を待っていた
走ってくる眼鏡の男の人、店に入った。
私も続けて入る。眼鏡の人と鮎川さんがライブのフライヤーを手にして
2人で覗き込んで笑っていた。
目が覚めて、幸宏さんの訃報を知った。
(亡くなられたのはもっと前だけどニュースで一般に知らされた朝)

前の投稿の1/28の夢
鮎川さんがお別れを言いにきてくれたと思いたい。

というか22年2月のMちゃんのお通夜で少し話したのが会話したのは最後

その前はコロナ初期の福岡(地元ラジオ出演の入り待ちを数人でしていた
ら車から降りてきた鮎川さんが私がいるの見て嬉しそうに名前呼んでくれ
た思い出)とお茶の水デイスクユニオンでのコロナ警戒体制でのサイン会

コロナが厳しくなってからはライブには行ったけれど、ライブ後の物販で
のサイン会や気軽にフロアでファンと交流などは無くなっていたし
(もちろんそれで良い)私ももし自分が無症状でウイルスを持っていたら
迷惑をかけるからとライブ直行直帰だったから。

1/28
新代田でのモモヤマ穴キュウのライブ
穴井さんの鮎川さんへの気持ちが溢れすぎて鮎川さんに自分の寿命を5年
くらい上げたいとか言うので、逆に不安に。
この日、友達に鮎川さん自宅に戻っているみたいと聞いた。

1/30

仕事に行く前のダンナと「3月の(ビクターのイベント)は出演も短いから
負担も軽いし演れるといいね」なんて会話していた。
前日にもう旅立っていたというのに。

家にいる時はひたすら手仕事をしていた。
読書などは集中できず。作りかけのパッチワークがかなり進んだ。
小さなパーツをチクチクと縫い合わせていくことだけが気が紛れた

友達からのライン
ライン開く前に
心臓が恐ろしいほどドクンドクンドクンとする

程なく公式発表を見る
病名と余命のことはこの時に初めて知った。

泣いても泣いても泣いても
頭も瞼も痛くて、でも泣く

これが2022-2023.1.30までの私の日々です。


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