ラジオをやった/やりたい #3

ところでラジオというの、みんないつ聴いておるんでしょうか。

わたしがラジオを聴いていた思い出というのは、祖母の家で目を覚ましたときに流れていたNHKのニュースであるとか、日曜日に夕飯の買い出しに隣町のジャスコまで行った帰りに親の車で流れていたサンデー・ソングブックだとか、中学の時に夜な夜な起きて聴いていたスクール・オブ・ロックだとか、嫌なことばかり考えてどうしても寝れなかったときに流してみたらなんだかどうでもいい気持ちに鳴って眠れたさよなら絶望放送だとか、卒論を書くために家にこもって毎日聴いていたジェーン・スーの「生活は踊る」〜ライムスター宇多丸の「アトロク」までだとか、そういうのなのだけれども、ときどき面白そうな話をしているから耳を傾けるということはあっても、ラジオと一対一で正対してきっちり最初から最後まで、映画みたいにそのすべてを見届けてやろうとしてかじりつくというよりは、何かをしながら聴くということのほうがおおい。

これは昨日書いたように、ラジオの上で行われているのがみっちり緻密に構成を組んで推敲に推敲を重ねたことばの連なりというよりはむしろほとんど酔っ払いに近い状態で行われるボールの打ち合いであるからかもしれないし、もしくはたんにメディアの特性として、本と違って音は手を塞がないし(だから音楽があるとわたしらはダンスをすることができる、最高!)、映画と違って余所見ができるからという気もする。なんにせよ、「ながら」に対する許容度がかなり高いメディアであるというのは確かなことで、あーだこーだこっちに言ってくることがない、というのはとても気ぶんのよろしいことだとおもうものである。もちろん喋ってみたら喋ってみたで、できれば話を聞いては欲しいものではあるのだけれども。

「人生遠回りアンソロジー」について友人が言うておった感想に「聞く聞かないをこちらが決められる自分語りは楽しい」というのがあって、ほうんなるほどと思ったのがある。それはそうであるなともおもうし、そういえば無慾社会人編100回記念放送とかいうそれの極致みたいなことをした身としては勝手に多少救われる気持ちを持たないでもないというところがあって、なんにせよ、「会話があって、その話している人からこちらは見えていないから、わたしはどう振る舞おうと自由」という環境は稀有であるように思える。これは電話で怒られているときに手元ではプレステのコントローラーを握っているのにも近いし、もしくは居酒屋の隣のテーブルや街ですれ違った人の話を立ち聞きするのに近いのだけれども、「こっちを向いていない人が一生懸命になにがしかのことを話している」のを無責任に聞くのはとっても楽しかったり、もしくは自分に関係はないけれどもそれなりの情報量が頭のRAM領域を適度に使ってくれるので雑に思考をスローにすることができて、睡眠導入にうってつけであったりする。

「深夜ラジオに救われて」という人は多いけれども、たしかにあの独特の距離感は精神の健康にちょうどよい安全さを持っているものであるなとおもうものだ。

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