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みちくさ⑥‥赤い鳥運動と明星

学校法人明星学園発行の『明星学園報』に、資料整備委員会が連載している「資料整備委員会だより・みちくさ」を転載します。

資料整備委員会だより第6回
‥‥2017年2月発行分、明星学園報No.107に掲載

明星の保護者たち 3
 学園史の資料を整理していると、さまざまな職業の保護者の中に、芸術分野で活躍された人が数多くいらっしゃることに気づきます。今回はその中から、明星学園の誕生とも関連の深い「赤い鳥運動」にかかわった保護者の方々を紹介しましょう。(敬称略)

■赤い鳥運動と北原白秋
 1918(大正7)年7月、夏目漱石門下の作家 鈴木三重吉は「芸術として真価ある純麗な童話と童謡を創作する最初の運動」として雑誌『赤い鳥』を創刊しました。三重吉はこの運動に賛同する当時の代表的文壇作家たちに新しい時代にふさわしい童話・童謡を寄稿させ、日本の近代児童文学・児童音楽の創世期に重要な影響を与えました。絵画の分野では山本鼎を選者として児童の自由画を掲載し、自由画運動を全国の学校に広めています。また『赤い鳥』は作家による児童のための物語のほか、子どもたち自身の作文・綴方の指導にも力を入れました。『赤い鳥』創刊の目標の一つに「募集作文」があげられており、創刊号で募集した創作童話や各地童謡の選者が北原白秋でした。
 白秋は『赤い鳥』に精力的に自作の童謡を発表し、同時に「地方童謡」(わらべ唄)や創作童謡の募集にも積極的にかかわり、その選者として熱心にこの運動にとりくんでいきます。そして、やがて投稿作品のなかに子ども自身の作品があることに気づき、「少年自作童謡」欄(児童自由詩という呼び方が『赤い鳥』で用いられるのは1921年11月から)を創設しました。

■「子供は本来詩人である」
 白秋は1922(大正11)年3月に長男、1925(大正14)年6月には長女にめぐまれます。白秋は「子供は本来詩人である」という児童観を持っていました。「子供は本来が詩人であります。成人のあらゆる感情の芽生えは、その深い叡智と共に生れ乍らの嬰児の体内にも、既にその凡てを潜めてゐるのです。あの無心な幼児たちの折に触れての片言の一つでも聴き逃さないでゐたら、それがどんなにすばらしい詩を成してゐるか、一つ一つに光ってゐない事はないのに驚かずにはゐられますまい。感覚の素朴と純心と、しかも凡ての感激が新鮮であり、驚異に充ち満ちてゐる故に、その言葉は生き、そのおのづからな韻律がそのまゝの詩の形を以て顕はれるのであります。その自然さは卵から生れたばかりの小鳥の声のやうに無邪で自由であります。」
 このような児童観を持つ白秋から見れば、明治以来の小学校で歌わせてきた学校唱歌は、子ども本来の世界を考えず、ただ大人を真似て歌わせるだけの不自然極まるものだったのです。白秋にとって、学校はあくまで子どものために存在しなければならないもので、彼はそうした確信にもとづいて「童謡復興」の運動に立ち上がったのでした。

■成城から明星へ
 白秋は二人の子どもたちを成城学園に託し、主事であった小原国芳氏に私淑していました。ところが1929年、小原が「第二の成城」として玉川学園を創設したことによって成城学園内に分裂が起こり(成城事件)、やがて小原は成城を去ることとなります。白秋は息子が慕う小原を擁護しつづけ、子どもたちを玉川学園に転校させます。この頃の経緯について、白秋の長男隆太郎さんの同級生で、元学園理事・明星会会長の谷井精之助さん(7回生)が次のように書き残しておられます。
 ―私が教育を受けた学校歴は多岐にわたっています。昭和3年、学齢に達した時入学したのは、家の近くにあった目黒区立菅刈尋常高等小学校でした。しかし、いわゆる自由主義教育に憧れた両親は、3年生から小原国芳先生の成城学園へ転校させました。ところが5年生の時「成城騒動」が起り、小学校から旧制高校まで、教師も生徒も父兄も二派に分れて争い、私の担任であった佐藤加寿輔先生も両親も「小原派」であったため、6年生は玉川学園で過しました。当時の玉川学園小学部は「労農教育」を標榜していたためか、昭和9年からの中学は明星学園中学校(旧制)へ編入させられました―(明星学園報No.28)
―私は小学3年・4年・5年は成城学園で、担任が佐藤加寿輔先生であったためか、文芸方面に強い興味を持っていた。小学6年は玉川学園で、その時一緒に通った北原隆太郎君(北原白秋の息子、明星でも同級生)と二人で同人雑誌を作ったりした。そしてその芽生えは、明星に入ってからチンさん(内野健児先生=作家・新井徹)によって大きく育まれたように思う―(明星会会報No.22)
 成城事件で子どもたちを玉川学園に転校させた白秋は、1934(昭和9)年、長男の中学校進学にあわせて再び二人を明星学園へ転校させます。谷井氏と同じく隆太郎さんを旧制中学校(7回生)へ、長女の篁子さんを小学校(11回生)へそれぞれ編入させました。このときの白秋が子どもたちの学ぶ学校として明星学園を選んだのはなぜだったのでしょうか。その時代の明星学園の保護者の顔ぶれを見ると、『赤い鳥』を中心とした児童文学・童謡の改革に深くかかわった人物がつぎつぎと子どもたちを通わせており、おそらく白秋もこれらの人たちとの関わりの中で明星学園の存在を知り、子どもたちにふさわしい学校だと考えたのではないでしょうか。

■赤い鳥運動にかかわった保護者たち
 赤い鳥運動が目指した「子どもの解放」は、明星学園の創立理念とも一致しています。大正自由教育運動のなかで生まれた明星学園が、この運動とかかわりの深い人々に選ばれたのはそういった理由があったからでしょう。明星の保護者のなかで白秋とも交流があった文芸家や芸術家で、とくに児童文学運動に積極的に加わっていたのはおもに次のような方たちです。

2・5・7回生保護者 恩地孝四郎氏
 版画家、装幀家、詩人。創作版画のみならず日本における抽象表現の先駆として高く評価されている。北原白秋をはじめとした多くの詩人、作家、画家との交流が深い。長女の三保子さん(2回生)は児童文学の翻訳家で一時期明星の教壇にも立っている。長男の邦郎さん(5回生)は明星の美術科教員となり、演劇指導にも熱心だった。その後、高校長を3回も務めた。次男の昌郎さん(7回生)は終戦直前の1945年8月6日に戦死されている。

2・6・9回生保護者 坪田譲治氏
 小説家、童話作家。復刊後の『赤い鳥』の中心的作家。善太・三平兄弟の活躍を通じて子どもの生活と心理を描いた作品群が名高い。多くの童話作家の育成にも貢献した。3人の子どもたちをいずれも明星の旧制中学校に通わせていた。

25・27・31回生保護者 与田凖一氏
 詩人、児童文学者。北原白秋と同郷の福岡県に生まれ、少年期には『赤い鳥』『文章倶楽部』に投稿。郷里出身の白秋に認められて上京、白秋の長男隆太郎の家庭教師として北原家に住み込み、まだ幼児だった長女篁子の日常生活の中の独語を記録・蒐集した。1929年に休刊した『赤い鳥』が1931年に復刊した際は編集記者として加わった。童謡・童話集も多く、太平洋戦争後には日本児童文学者協会の会長も務めた。長男準一さんは成人して流行歌謡の作詞者となり、橋本淳の筆名で「ブルー・ライト・ヨコハマ」「ブルー・シャトウ」など多くの作品を発表した。

5回生保護者 野口雨情氏
 本名は英吉。北原白秋・西条八十と並ぶ童謡詩人。「青い眼の人形」、「赤い靴」、「雨降りお月さん」、「しゃぼん玉」、「七つの子」、「證城寺(証誠寺)の狸囃子」など今も歌い継がれる童謡が多い。また「船頭小唄」「波浮の港」などの新民謡も愛唱された。

■明星学園行進歌
 白秋の子どもたちが編入してまもなく、赤井園長は行進しながら威勢よく歌えるような、新しい学園歌を白秋に依頼しました。『明星の年輪―明星学園50年のあゆみ―』からその部分を紹介しましょう。

―昭和9年学園の10周年記念学芸会が外苑の青年会館で催された時、わたくしは偶然に父兄の北原白秋さんとならんで見ていた。お嬢さんの篁子さんが劇に出られるのだった。その時わたくしは「明星学園行進歌」を作ってもらいたいとたのんだ。白秋さんは心よく承諾された。そこで資料としてわたくしの歌と学園の要覧をさしあげておいた。それには今も書かれている「強く、正しく、朗かに」が書かれていた。しばらくすると白秋さんから原稿用紙に「明星行進歌」が記されてきた。それが今歌われているものである。
「深き木立」は今の若い人々にはぴんとこないかも知れないが、戦争前までは井の頭の池の両側から新東京あたりまで樹齢40~50年の杉が深く茂っていた。「富士」は校庭から晴れた日の朝夕は望まれたものである。それらの風物がことごとく詠みこまれ、「校歌」といわないで、一篇の井の頭の詩としても立派なもの。それにわれわれのモットー「清く」「朗か」がよまれ、「若き魂」が歌われているので、われわれは有頂天になってよろこんだ。
 曲は白秋さんのお知合いの細谷一郎さんにたのんで作ってもらった。それができてきたのは秋の運動会の少し前であった。さっそく練習して、運動会のあとの式の時にはじめて合唱した。白秋さんは夫人とともに来ておられたが、特に父兄席から出て生徒の前に立って聞いておられた。時々頭をかしげるようにしておられた。何か気に入らないところでもあったのであろうか。20年むかしのそのお姿がほうふつとする。―

(次回へつづく)

(文責:資料整備委員会/大草 美紀)

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