浅利与一没後800年

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」に始まる平家物語は、古文の時間に暗唱させられ、いまだに頭の中に残っている。
 あの頃、授業では習ったものの、全巻を読み通すことはなく、ましてや浅利一族の初代、浅利与一が壇ノ浦の戦いの「遠矢」に記されているとは、思いも及ばなかった。浅利与一は、久安5(1149)年誕生とされる。新羅三郎義光の孫、源与一義成。支配下の地名「浅利」(現・山梨県中央市)を名字にしている。
 平家を追う源義経に従い、文治元(1185)年3月24日壇ノ浦の合戦の折、平家との矢合わせに勝ち、遠矢の誉れを天下に響かせた。その平家物語の巻11、平家との矢合わせで源義経は、後藤兵衛実基を呼び、この矢を射返すものはいないかと尋ね、与一が推薦された。義経が与一に対して「御へんあそばし候なむや(貴殿がしてくださるだろうか)」と敬語表現で話し掛けている描写がある。与一は甲斐源氏の一族であり、年齢も義経より10歳ほど上だったことから、義経も与一を見下すことができなかった存在と平家物語の作者は認識していたと思われる。
 今年の9月7日は与一の没後800年の節目。このご縁に出合えたことを喜ぶとともに、国のため、人々のために命を懸けたご先祖さまがいて、今の私たちがあることを深く感謝し、私たちもまた世のため、人のために尽くし、世界を平和に導く人生を目指して励みたい。

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