わたしのこと
この記事では、わたしのことを書きます。
「とにかく、前へ進む。」わたしのちっちゃな決意の記事です。
伝えたいことは、最後の見出しに集約しました。
それ以外の話を書いた理由は、あくまでも私が吐き出したかったってだけです。
興味があったら、前半部分も読んでみてください。
少しずつ変わっていった母
私の家はシングルマザー。
母は、私が小学校6年生の頃に適応障害を患いました。
程なくして働けなくなり、生活保護を受給することになります。
今まで身を粉にして働いた母は、「保護を受けて家にいる」という事実が受け入れ難かったのでしょう。
家にいたくないんだろうな。
3つ上の姉と2人で、なんとなくそんな雰囲気を感じていました。
それから、もともと姉に特段厳しかった母は、毎日のように姉とケンカをするようになりました。
その様子は、とにかく異常でした。
「もういい、2度と口をきかない」
と、自ら口にガムテープを貼る母。
手元にある物をひたすら投げつけ、ハンガーで自分の首を絞めようとする姉。
毎日毎日続くヒステリー。
私は、とにかく家が大嫌いになりました。
ケンカの当事者でないことはわかりつつも、何もできないもどかしさと居心地の悪さから、
ここは私の居場所じゃない。
と、思うようになります。
中学生ながらに考えていたこと
少なくとも学校の先生には好かれたい。
学校だけは大好きな場所にしておきたい。
とにかく、部活も勉強も頑張りました。
部活ではキャプテンに選ばれ、
テストはいつも学年で1位か2位。
田舎の小さな学校でしたが、誇らしかったのを覚えています。
先生からも信頼されていました。
先生がどうやったら褒めてくれるのか、どうやったら喜んでくれるのか、頼ってくれるのか、
手にとるように分かりました。
気にかけてほしくて、わざと先生の期待に応えないこともありました。
しかしどこかで、たくさんいる生徒のうちの1人でしかないことは知っていました。
優等生でなくても、学校でやんちゃをしていても、先生は等しく生徒を愛しているのだと。
もう頑張れないんだって
中学最後の春
私はバスケ部のキャプテン
ポジションはポイントガード
いわゆるチームの司令塔
最後の大会に向けてチームの士気が高まる中、当の私はというと、
チームの勢いと反比例するように熱が冷めていきます。
「怖い」
シュートに切り込むことも、指示を出すことも、何もかも全てが怖い。
失敗したら私の存在価値はなくなる。
心の底からそう思っていました。
学校の中で優秀でいることが、私がそこにいて良いと思える唯一の存在意義。
ここを失ったらもう居場所はない。
家も、学校も、嫌いな場所になってしまう。
もしかしたらそれを失うかもしれないという恐怖に耐えきれませんでした。
部活に行きたくない。
どれだけメンバーがしんどそうにしていても、もう少しも励ますことができませんでした。
今まで練習サボってたくせに。
部内の面倒なことは私にやらせてきたくせに。
やりようのない気持ちから、そんなことを思うようにもなりました。
結局、部として最後の大会はたった数ポイントの差で惜敗。
悔しいとか悲しいとか、そんな感情よりも、
やっと終わった。
と、本気で思いました。
私がそんなことを思っているなんて、きっと誰も思っていなかったと思います。
表向きは、勉強ができて責任感もあって、まじめで優秀な生徒。
本当は、誰よりも臆病で、悲観的で、ひねくれた生徒。
この頃から私は、表と裏の矛盾に苦しみながら、「本当の気持ち」を押し殺すようになります。
高校では
申し分の無い内申点だった私は、推薦で市内の進学校へ進み、幼い頃から続けていた空手道部に入ります。
「とにかく文武両道」
事あるごとに母は言っていました。
それを聞いた私も、当然できると思っていました。
初めてのテストこそ学年で13位だったものの、それ以降はすべて、常に学年の上位5番に入る成績を残します。
教科担当の先生が作ったテストだったので、
授業を聞いていればどこがテストに出るか分かりましたし、テスト前は1日14時間ほど机に向かうことで、苦手教科も乗り越えました。
部内ではもともと空手経験者が少なかったこともあり、1年次から当然のように試合に出させてもらいます。
先輩に負けることも、男子部員に負けることも悔しかった私は、始業前の朝練も、昼休憩中の昼練も、当然終業後の部活も、手を抜きくことはありませんでした。
2年次には、朝練が始まる前に校庭に入り、ひとりランニングを続けるようになります。
もちろん試合は嫌いでした。
練習だって嫌いでした。
ただ、「勉強ができて部活ができて、それでも誰より練習する」という自分が好きだったのです。
なぜなら担任の先生が、頑張ったら褒めてくれたから。
1、2年次の担任は少なくとも、ただ結果を残すのではなく、努力したという事実を褒めてくれる素敵な人でした。
とにかく褒めてもらえるように、認めてもらえるように「頑張る」ことを選んだのです。
どうしても分からなかったこと
順調に励んでいた勉学、部活動。
年度末だったこともあり、その日は短縮授業。
私たちはいつもより早い時間から部活動に励んでいました。
それは、突然の出来事でした。
"ドォオーーーン!"
"ゴォオオオオオオ"
今まで感じたことのないような強い揺れが襲います。
あんなに重かった武道館のドアは、まるで模型のように軽々と揺さぶられ、
座り込むことすら難しいくらい激しく地面が揺れました。
3月11日
たくさんの人の大切なものが一瞬にして飲み込まれた日です。
校舎の2階に避難してから間もなく、1階は津波によって浸水。夜には近所のガソリンスタンドが爆発し、人生で初めて死を覚悟しました。
3日後、幸いにも家に戻れた私は、道着を着たまま途方にくれました。
先が見えない不安に苛まれ、ただただ虚しさと戦います。
5月になって授業が再開しても、部活動は教室で実施。当然、多くの部員が部活に参加できませんでした。
当時、アパートの4階に住んでいた私の家は幸いにも被害は少なく、家具が倒れた程度。
虚しさと、寂しさと、私がやるべきことを模索しながら、また勉学と部活動に励む日々が始まります。
当時、被害の大きかった地域に住んでいながらも恵まれた環境にいた私は、今まで迷いなく打ち込んできた勉学にも部活動にも、自信が持てなくなっていました。
どうするのが正解なのか分からない。
部活に来られない仲間がいる中で、このまま部活を続けて良いのか。
とにかく、自分に問い続けました。
答えは、今でもわかりません。
呆気なく消えた居場所
当時の私は本当に恵まれており、被災地にいながらもインターハイに出場。3回戦目まで駒を進めました。
顧問の先生にも、今まで見てきた生徒でここまで勝ち進んだのは初めてだと、嬉しい言葉を頂きました。
ただ、それからというもの、私は存在価値を示す場所を失います。
空手ありきだったのに、もう私の手元に空手はありません。
勉学も、教科担任の先生が作る以外のテストは全くと言っていいほどできませんでした。
学校のテストはできても、世の中に通用するような学力は一切身についていないことは、もっと前から知っていたことです。
当然、偏差値は横ばい。
地元を出たらどこにも通用しない。
行きたかった教育大のレベルにも到底及ばない。
もう、自分の価値を実感できる場所は無いのだと分かっていましたが、そう思えば思うほど、精神的にも削られていきました。
家に帰れば、学力の伸びない私を叱責する母。
中学生の頃、姉に向けられていたヒステリーが今度は自分に向けられ、ストレスで頭や顔には常に湿疹が出るようになり、授業中には耐えられないほどの眠気に襲われました。
それでも、終わるまで、絶えなければ。
成績を上げなければ居場所が取り戻せないと知りつつ、いくら手を動かしても知識は一切頭に入りません。
それでも、とにかく、机に向かう。
迎えたセンター試験も、異常なほどの眠気に襲われ、解かなければという心とは裏腹に頭が回りません。
地元の教育大受験は、当然不合格。
その頃から、母の様子も少しずつ変わっていきます。
救えなかったこと
母が次に患ったのは、痙性斜頸
本人の意思とは関係なく、首や肩が動く病気。
会話をすると母の異常さは表立って現れ、舌が不自然に出たり入ったりを繰り返す。
時折呂律も回らなくなります。
そのうち、粗相もするようになりました。
精神科に通ったり、デイケアに通ったりしていた母はどこか、「なんとかしようとすること」から、背を向けたような雰囲気でした。
公立の後期試験にも落ち、お金が無いと知っていながら関東の私立大学を受験させてくれた母は、気力なく「頑張りなさい」と、私を送り出してくれます。
3月17日、関東の私立大学へ進学が決まりました。
入学金を工面してもらうために、父親に会いに頭を下げに行かなければならず、泣きながら母に「行きたくない」と訴えた時も、母は怒るわけでも悲しむわけでもありませんでした。
「仕方ないでしょう、行ってきなさい」
娘を送り出す覚悟と、どこか諦めのようなものを母から感じたのを覚えています。
自分だけは自分の人生を諦めない
3月21日
友人2人と地元のお好み焼き屋さんに行く予定だった私は、休日にしては早く起き、支度をします。
いつものように寝室にいる母に、「行ってくるね」と伝えました。
まだ寝ているんだなと思いつつ、その日はちょっとだけ「いってらっしゃい」と言って欲しくて、もう一度「行ってくるね」と、声をかけます。
同時に母をトントンと叩いた時、違和感を覚えました。
「お母さん?」
うつ伏せになっていた母を起こすと、腕は既に固まっていて、手はひんやりと冷たく、
一瞬で、もうダメだと悟ります。
救急車を呼び、どうにか拍動を戻して欲しいと胸を打ち続け、お母さん、お母さん、と。
呼び続けました。
精神安定剤を飲むことで内臓が弱っていた母。
睡眠導入剤を飲んでも眠りにつくことができず、お酒を飲んで寝るようになった母。
後に聞いた死因は、急性循環不全
昨晩、お酒を止めなかった自分を責めました。
震えながらひとしきり泣いた後、救急隊員の方が祖母に電話をかけてくれます。
その日は、もう、泣くことはありませんでした。
祖母が来るのを待ち、先に着いた叔父に「大丈夫か?」と問われた時も、しっかりと目を見て頷いたのを覚えています。
その日が、人生で一番、大人だった時です。
もう、戻ってこない。仕方ない。
私のせいだ。でも、仕方ない。
もう、居場所もない。仕方ない。
理不尽だと思いました。
母は、悪いことなんてしていないのに。
それでも、それでも私は、
私だけは自分の人生を諦めない。
高校の離任式に出席できなかったため、前日にお世話になった先生に会いに行く時も、私は笑顔でした。
先生も、笑ってくれました。
人は辛くても笑っていられる。
前に進むことができる。
もう何もないけど、何もないからこそ何でもできる。
18歳の春
ここから人生の巻き返しを図ろうと心に誓いました。
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