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水たまりを軽やかにジャンプするような人に私は恋をする

これからの自分の人生を過ごしていく中でいま私が決めていることは、世界の見方を変えていきたいと思っているということ。
どういうことかというと、その「人」から、その「社会」から、私自身がどう見られるのかを先に考えるのではなくて、私がどう見るのかだけを大切にすること。

とはいえ、難しい。昨日もやってしまった。無意識に。
昨日は雨だった。ヘルニアの診察のために駅から病院に向かう途中信号待ちをしていた。隣にランドセルを背負った制服を着た小学生の男の子が傘をささずに同じく信号待ちをしていた。その子はipadを抱えていて、濡れた画面を制服の袖で拭いていた。拭いても拭いても画面は濡れていた。

病院までは信号を渡ってまっすぐ進んでいくだけだから、もし一緒の方向なら傘入るか聞こうかな、急に声かけたらびっくりするかな、でも方向一緒かわかんないしな、どうしようと考えていたら信号が青になって声をかけるタイミングを逃した。
小学校1、2年くらいの子だったので、歩幅は私のほうが大きいから私が先に歩いていたのだけど、結局病院までのまっすぐな道のりの間たまに後ろを振り返りながら、小さく見える小学生を見ながら「傘はいる?」って聞けばよかったという小さな後悔。あの子風邪引かなかったかな。お母さんに制服ぬらして怒られなかったかな。(制服って濡れると独特な変な匂いする記憶)

結局、私は無意識にやってしまった。声かけてもなぁ、とか、変なおばさんって思われて無視されるかぁ、とか、途中で曲がるかもしれないしなぁ、などと、もやり考えながら、結果声かけたら良かったなぁと後悔しながら十数分も不毛に雨の中を歩いた。
あ、タイトルとこの話はまったく関係はない。
私が言いたいことは、「あ、びしょ濡れ。傘入れてあげよう」だけを大事にできたらよかったということ。相手がどう思うかは相手の自由なのだから。

相手にとって私がどうであるかより、私が相手に思ったことを大事にできるようになりたいと改めて思った出来事だった。
私にとってそういうことが、世界の見方を変えるということに感じている。


「常識的な答えは知っている。これからは自分だけの答えを見つける。」

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