見出し画像

+1 ver.2021

 本日、10月12日は僕の誕生日である。昨年に引き続き、ひとつの区切りとしてバースデー当日に記事を公開させていただく。


 僕は今日で22歳となった。その記念すべき日を迎えるにあたり、昨年の記事を読み返してみた。21歳になったばかりだった僕は、将来への不安と焦燥感に燃えていた。己の内面と社会に敏感でいることが、文章からありありと読み取れた。行動していたかは別として、様々なことを考え、悩み、もがいていた。

 そこへいくと、1年後の僕は特に感情を強く持たなくなってしまっている。これまでに比べると、「歳を重ねる」ことに対する重要性を感じなくなってきている。20歳が21歳になる時には数日前から緊張感を持っていたが、21→22となるとこれといった想いはない。学生でなくなってから2度目の誕生日ということもあり、さらに比較的忙しく(立派に社会人をやっている方や学問に勤しむ方に比べたら甘っちょろいものだが)生活するようになって、思考する時間と熱量が落ちているのかもしれない。


 強いて言うならば、「ついに同学年の人間たちが社会に出る」という事実について考えることはある。僕は一足先に学生の身分からドロップアウトしてしまったが、この2年間は何もしていないに等しい。ただただスキルも学歴もない22歳が完成してしまった、それだけだ。

 しかし、これについても昔ほど不安に取りつかれている訳ではない。本当に、昔に比べると思い悩むことが少なくなったと思う。今までが悩みすぎであり、現状が人間として正常な部類なのかもしれない。昔の僕はよく「普通になりたい」と嘆いていたが、当時の理想に近づいていると思えば、悪いことではない。決して得意ではないが、太陽に当たるのは人間にとって良い作用があるのだろう。


 しかし、これはこれで僕が浅い人間になってしまった、という悲しみがある。元々深みなど皆無なのだが、ヒトは思考し、悩むことが特徴だと思い、考えた時間が想いとなると信じていた僕は、それを失った自分がカラッポに思えてしまうのだ。

 だからといって半引きこもりに戻り、今にもまして社会に居心地の悪さを感じる人生に復帰したいかというとそんなことはない。無精な日々を過ごしても、僕はインプットを怠りがちなため、これ以上何かを生み出すことはないだろうし、何よりも働かねば生活が立ち行かない。考えたくもないが、両親がいつまでも健在とは限らないのだ。

 僕はないものねだりをしているに過ぎない。未だに四次元ポケットが欲しくてたまらないし、働かずにそこそこの収入が欲しい。働かない時期が1ヶ月も続けば外に出たくて仕方がなくなるのも目に見えているが。


 このままでは、特に何も起こらずに23歳になってしまいそうだ。来年もnoteを続けているならば、少しは内容のある記事が書けると良いのだが……。



 特段書きたいことがあるわけでもないのにこの日に記事を公開する理由は簡単で、祝ってほしいからに他ならない。形だけでもメッセージを頂けるのは本当に嬉しいことだ。誰の誕生日も等しくめでたいものだと思っているし、自分のものもまた祝福に値すると考えている。

 既に何人もの方から祝いの言葉を頂いた。非常にありがたいことだ。誰に言葉を掛けられても嫌なことはない。むしろ嬉しいものだ。年に1回、互いの誕生日にしか連絡を取らない知人も数人いるが、その程度の繋がりが温かく感じられたりする。

 そんな皆様のおかげで、僕はこれからも生きていくことが出来る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?