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僕は可愛い

 ナルシシズムで言っているわけでは決してない。


 僕は物心ついた頃から今に至るまで、誰かを助け、守りたいと考えて生きてきた。他人の危機に颯爽と現れ、事態を解決して去っていく、なんてシチュエーションに憧れているし、自分が物語のキャラクターだとしたら銃弾から彼女をかばって絶命する役でありたい。特撮やヒーローアニメにあまり触れずに育ってきた割には、英雄へのあこがれ、羨望が強い人間なのだ。

 たとえば誰かが柄の悪い集団に絡まれていたとする。僕には護身術の心得がなく、立ち振る舞いに風格もない。そのうえ財力も乏しく、有力者とのつながりも持たないため、他人に降りかかる危機を払いのける力はない。しかし、身代わりになることならできる。結果としてそれが最善策でなかったとしても、行動すること、そして他人のダメージを少しでも軽減することは美しく、カッコいいことだ、という価値観を僕は持っているのだ。


 そんな僕が1月下旬に報道されたニュースに心を痛めたのは言うまでもないだろう。僕が当該車両に乗っていれば、高校生が独りになることはなかったのに、などと思ったものだ。

 だが、果たして本当にそうだろうか。


 ずいぶん前の話になるが、友人たちとお酒を飲んだ帰り道で、そのうちの2人が酔った勢いから喧嘩を始めてしまった。今にも殴り合いの様相を呈してきていたので、僕ともうひとりの友人が間に入って止める羽目になった。しかしその時、仲裁したのはほぼ友人1人で、僕は周りをオロオロと動くことしかできなかった。


 そう、僕には度胸がない。


 平時には、己を犠牲にしてでも誰かを救いたいと考えているし、むしろそのようなシチュエーションを求めているところまであるが、いざ目の前に誰かの危機が発生すると、途端に僕の身体は硬直してしまい、何のアクションも起こせなくなってしまう。そうして、事が終わった後に後悔するのだ。このような経験を、人生で何度も繰り返してしまっている。

 
 前述の喧嘩のケースはまだ飲みの席や飲み終わりに良くある話であるが、もっと取り返しのつかないことになってしまったこともある。

 もう1年以上前の話なので意を決して書こうと思う。買い物帰りに自転車を漕いでいた僕の目の前100メートルほどの交差点で、年配の女性が運転する自転車と自動車が出合い頭に衝突した。大きな音がして、周辺の住宅や企業から人が集まり、警察や救急に通報しているのを尻目に、僕は何もせず、近寄ることすらなくその場を立ち去ってしまった。自転車の女性が亡くなられたと聞いたのはその日の夜だった。

 数日後、情報提供のために交番へ行った際、警官の方は「無意味に現場に居ても出来ることはなかっただろうし、逆に君のトラウマになってしまっても良くないから、気に病むことはない」と仰ったが、もし僕が事故を目撃して即座に110と119をしていれば、そして応急処置ができていれば、命を救うことができたかもしれない。救命が完遂できていれば、僕の憧れる展開そのものに違いなかったのだ。しかし、僕はそれをしなかった。できなかった。

 急いでいたわけではない。ただ、血が流れていたら恐ろしいし、周りの人に任せちゃえ、と動かずにいただけだ。無責任極まりない。


 今こうして反省しているのも、故人を救うことができなかったことに対する悔いというよりも、自分の理想とかけ離れた行動をしてしまう己へのやるせなさの方が大きい。つくづく自分勝手な人間である。僕のような者が前述の例の車両に乗っていても何もできなかっただろう。もし僕が教師をやっていたらいじめを隠匿して生徒を苦しめてしまうだろうし、僕が工事現場の作業員ならば危険な雰囲気を感じても言い出せず、大きな問題に発展させてしまうだろう。社会人としては致命的な欠陥である。

 結局、僕は自分が可愛いのだ。noteにネガティブな言葉を並べながら、そんな己のことを憎めず、改善できないまま生きてしまっている。

 

 僕は基本的に自分のことが好きだが、このような弱虫な部分は嫌いであり、変えねばならないと思っている。しかし、咄嗟の場面での行動選択を変えていくにはどうしたらいいのだろうか。どうにも難儀である。

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