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人生のゴール

最近は本を買ってもハズレだと思うことが多い。途中で飽きてしまう。最近の人が書いたものは、全部そうかもしれない。本のタイトルや帯、目次を見れば充分と思うことも多い。

それに、今は移住準備のために、せっせと片付けをしている。先日もホームセンターで買った本棚を分解し、入れていた本を処分したところ。だから、よっぽどでなければ、本は買いたくない。

たまたま見かけた記事に『死は人生で最も大切なことを教えてくれる 』鈴木秀子著の目次が紹介されていた。

●第1章「死」が“ありのままに生きる”に導いてくれる
「死」が、今の当たり前の生活のありがたさに気づかせてくれる
「死」が執着を振り払い、“聖なるあきらめ”をもたらす
「死」で、自分がいるだけで感謝されることに気づく
「死」が息苦しさから解放してくれる
「死」は人の真の価値を教えてくれる
●第2章「死」は人を優しくする
「死」で、嫌いな人も受け入れられるようになる
「死」で人は、攻撃しなくなる
「死」を前にすると、感謝したい相手が見つかり、心が穏やかになる
「死」への意識で、周囲への愛情が強くなる
「死」が最高のおもてなしを生み出す
●第3章「死」が困難を乗り越えさせる
「死」が“たった1ミリのプラス思考”を生み出す
「死」で誰もが、ポジティブになれる
「死」への意識で、失敗もトラウマも、すべて意味があったことに気付く
「死」についての知識は、人を強くする
「死」は限界を振り払ってくれる
●第4章「死」は人を成熟させる
「死」で、本当に必要なものが見つかる
「死」は最良の決断を教えてくれる
「死」を意識することで、信頼関係を強めることができる
「死」で人は、美しく老いることができる
「死」は最高の幕引きの舞台を用意してくれる

中身を読まなくても、この目次だけで充分。生意気だね~

15年前に不思議体験があって、それまでとは違う新たな苦しみが来たことはどこかで書いたけれど、私個人はとても生きるのがラクになったことは書いていなかったと思う。

ラクになったのは、「死」を意識したから。

その当時は、自分の気持ちにふたをして、実家の親のエゴを尊重し続ける(親孝行だと思っていた)ことが限界に来ていた。周囲が平和であるためには、私は大人なんだから、自分の気持ちと親のエゴを尊重する(=親孝行)ということはできるはずだと思っていた。結局、その鬱憤が子どもに行ってしまっていた。心療内科に子どもを連れて行ってしまい、子どもも家庭もズタズタになった。私はようやく仕事を始めたばかりだった。仕事をすることが、この不協和の限界を越える唯一の方法だと思っていた。いとも簡単に取り上げられたことは人生の支柱を奪われたようなものだった。それなのに、仕事をしていれば仕事をしているからと言い、辞めれば専業主婦だからと言い、とにかく、薬のせいでおかしくなった子どもを、医者は母親のあなたが至らないからだと言う。今思えば、医者はテキトーに言っていたことが分かるが、当時は医者を信じていたから。

他にも色々重なった。でも、結論は私が悪いという一点だけは決まっていた。そして、母親失格、娘失格、社会人失格ということになった。自分で言うのもナンだけれど、本当にがんばってきたのに。涙が止まらなかった。死ぬ元気がなかったから生きていただけ。早く自分を終了させたかった。そんなときに不思議体験があった。

「要らない枝は神が手入れをなさる」

そう言われて、

誰にとっても人生のゴールは死である。

という当たり前に気づいた。

ゴールが固定されると、とても安定する。

暗闇の中でどこまで落ちていくか分からない状態だったが、足が着いたという感覚があった。上を見上げれば、小さな白い点が見えた。ここが底だと思った。そうなると、あの白い点に向って登っていくしかない。

それがあっての今。親がゴールに向ってどう歩くかは、私には関係がない。

ゴールは決まっているのだから、せっかくだから、キョロキョロときれいな景色を見ながら歩きたいと思った。


鈴木氏は相談を受けてきた人だから、死への「向き合い方」だとか、死の「意味」だとか、理屈っぽく、ハウツーっぽくなるのは仕方ないのかなと思う。目次に書かれていることは、言われてみれば、そうかもと思うくらい。結果として、そうなったこともあるけれど、いちいち言うことでもないと思うし、そういうことを意識したらしんどくない?と思った。もっと柔軟に、テキトーでいいような...

たぶん、「自分」というものに対する重みが違うのだろうな。私はとても軽い(体重じゃない!)のかもしれない。いや、薄いと言ったほうがいいのか?

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