文章と向き合うのは嫌いだァー!

    夜中の2時半だが床についても目も頭も元気で眠れないので、ゲームのBGMメドレーを友に一筆認めてみようと思う。 

    自分は文章を書くのが好きだ。といっても日記とか考察とか、はたまた今書いている物とか個人で全てが完結する「正解」の無いものに限る。創作物に「正解」などという概念を持ち込むのもいまいち分からないし、ましてや外から持ち込まれるのも不愉快千万な話ではあるが、これはあくまで冴えない凡人が夜を潰すためにつらつら書いている駄文な故に、この主張にすら正解なんてものはないのだ。最も考察には正解があるパターンもあったりはするがね。
    例えば物語、考えるのは好きだし書くのも好きだ。だが人に見せて「面白くない」と言われてしまえばそれはある種の不正解になってしまう。自分は誰かがゼロから生み出した小説に赤の他人が優劣をつけるなんてそんな非人道的な事よく出来るな。なーんて思ってしまう。だから設定とかは考えてみたいが脚本はやりたくない。そんな感じだ。でもそんな自分でさえつまらない文章や拙い文章を読むのは嫌だ。これが人間、ひいては私の悪い所であり、既にこうして面白くもない文章を書き連ねている癖に偉そうにしゃあしゃあと「つまらない文章は嫌いだけど文章に正解を求めないで欲しいよ~」などと書き殴る自分の残念な所だろう。いやはや猛省。しかし自己嫌悪に脱線する物程面白くないものはない。話を戻そう。読書感想文なんかもそうだ。自分の感想をどうして他人に評価されなければならない?本を読んで「面白かった」と5文字書いたとしても、本を読んだ感想を自分の経験に紐付けてさぞ高尚な文を書いたとしても、どちらも”読書感想文”だ。間違っては無い。つまるところあれを正しく(人を不快にさせるタイプの正論で)言うと、読書の感想を上手いこと表現出来た人から高評価の取れる「表現力や文章力の上手い奴がどれだけ綺麗事書けるかコンクール」になるだろう。「自分が本を読んだ感想を述べること」を求めているはずなのに、やれ自分の生活と結びつけろだの、やれ本を読んで考えたことを実体験の観点から……だの、気がついたら成績という「正解」のためにやたらとドラマチックにさせられる。でもそうしないと「評価」がつけられないからだ。こうして子どもは無駄に文章を書かされて読書嫌いになっていくのだから、本の虫かつ教育を少しとはいえ齧った身としては心底嘆かわしい。レポートだって面白くない。自分が書いていても人が読んでいても、面白いと感じるレポートを書けるのが意欲的にも能力的にも適した学生なのだろうが、そんな物はよその勤勉な人に期待して欲しい。こういう愚痴を書くとやたらと筆が進む。余談だが、スマートフォンで文章を打つ時、この文章に筆が進むという表記は合っているのだろうかとついつい考えてしまう。それを言うなら「指が滑る」とかじゃないだろうか?デジタルに適合しないとなあと思う紙媒体派である。電子書籍は目が疲れる。
    ダラダラと書いたが、20年とちょっとしか生きていなくてもある程度自分の文章についての傾向は多少なりわかる。例えば、物語や漫画に必要なのは「起承転結」などとよく言うが、自分はどうやら「起転々々」か、いいとこ「起承承結」みたいな文章しか書けないのだ。文章というのはある程度クセが出るものだと思う。口で話す時もこのようなころころとした着地点の無い寄り道ばかりの話し方か、同じ話を堂々巡りしながら適当にオチをつけるような話し方をするので、文章の書き方というのは話し方にある程度寄って、クセとして出てくるのかもしれない。むしろ、同じ脳みそがやっているのだからそうあるべきだろう。
    あと嫌いなのが要約だ。文章から正解を抜き出すなんて「そんな…、自分なんかが勝手に要点を決めた挙句、短く手を加えていいのか!?」とさえ思ってしまう。テストの問題だったらどこを抜き出すかなんて一瞬でわかるが、社会だとそうもいかない。誰がどの情報を欲しがるかなんてわからない、正解はある程度定められているだけで確実なものでは無い。それが妙に解せない。テストで要約をやるとしよう。それこそきっと世に出ている、ましてや問題文になるほどの良文だ。散々言ってきた「正解」に属する文章なのだろう。まあ確かに自分は国語という科目が出来る方なので、要約は特段苦戦せず出来る。しかし乗り気にはならない、せっかくの大先生が良文を書いてくださったのに、人生さほど生きていないし、何も得ていない私がそこから何を抜き出す??しかしこれもある種傲慢なのかもしれない。要約を抜き出した文章を1作品と捉えているからこその思想なので、謙虚な自分には烏滸がまし過ぎる話である。今言ったことは忘れて欲しい。あと、このテーマでありがちなのは文章中の表現の話だろうか。この文はちょっと老けが強めに出ているイケオジで脳内再生して欲しいものである。あえてのこういう書き方ではあるが、そのくらいしないと痛々しい文体なのでね。弁明はさておき、自分は「カラフルな文章」が好きだ。登場人物の台詞回しとか情景描写とか、情報量が多い文章は読んでいて楽しくカラフルだ。こちらに一切合切を委ねてくるモノクロな文章もいいが、これは楽しみ方としては読んでいる中と読んだ後の明確な違いがあると思う。もちろん、モノクロな文章を考察しながら読み進めるのもとっても良いが、やはり自分は前者が好きだなあと感じる。こうして少しくらいはプラスでポジティブな事を言っておかないと、モノクロどころかゴミ色の文章が出来上がってしまうので。おーっと、でも思考のアウトプットに正解なんてないんだよ?と随筆の悪魔がゴミ箱から手招きしている。これではふりだしだ。

   さて、お気づきの方はその通り。「起転転転」である。言わんこっちゃない。仕方がないのでオチをつけるとしたら、そうは言っても自分は文章を書くのを辞めずにいたいと思う。文章を書くことを辞めた途端に頭が錆びていくのをひしひしと感じるし、文章に彩られている世界の方が豊かだと思うからだ。せっかく「I Love You」を「月が綺麗ですね」なんて言っても許される国に生まれているのだから文章と触れ合わないのは損だろう。自分は損得勘定に煩い小さな人間なので得を取れるなら取れるだけ取りたいのだ。

うーん、オチが弱いので不正解。
駄文につきこれにて失敬。

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