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「忘れてはいけないこと」を忘れる。

忘れてはいけないこと以外、すぐに忘れる質だ。

今日書きたい「忘れてはいけないこと」というのは主に自分の信条やそれに結びついている諸々の出来事で、半分自分に染みついているようなもののことだ。

それ以外の「忘れても差し支えのないこと」はとことん忘れる。
そうでもなければ私はうまくやっていけない人間だ。


たくさんの点を納めておけるほどのキャパシティがない。

その代わり一つの点だけ納めておいて、残りは紐で繋いで箱の外に垂らしている。
これなら思い返すことができる。一つの点をつまみ上げれば、ずるずると忘れていたことを思い出すことができる。

かつては感情によって適当に分類しながら詰め込んでいたような印象がある。楽しかったことはここ、つらかったことはここ、鬱陶しかったことはここ、よく分からない気持ちは、ええっと…とりあえずここでいいや、なんて。
よく分からない気持ちはしっかり見て、分析して、しかるべき場所に納めるべきなのに、それをしないのであれよあれよという間に荒れていた。…ような記憶がある。
それすら今は忘れても差し支えのないことなので、よく分からない。

自分にとって大事ではないことを忘れてもいい。

あるいは、全ての事柄に目立つ星印を付けない方がいい。

全ての事柄に目立つように星印を付けていたら、それはただ星形が好きなだけの人になってしまう。
よく目立つはずのトゲトゲのフォルムも、濫用されれば意味がない。


正直別の誰かの人生などどうでもいいのだ。それを意図的に奪いさえしなければ。

その人にはその人なりの自由があって、私にも私なりの自由があって、大概のことはどうでもいいし、その人にとってのどうでもいいものと私にとってのそれは違って当然だ。
それを拾い上げて「あの、落としましたよ」なんて声をかけていたら、お節介の極みである。

誰かが財布を落としていたら走って追いかけるけれど、ポケットからこぼれた空っぽの飴の包みを落としてもそうはしないのと同じようなことだ。

そして「誰かの人生などどうでもいい」という論だって、誰かにとっては聞き捨てならぬ文言だろう。
でもそれと同じくらい、誰かの論は私にとって聞き捨てならなかったり、どうでも良かったりする。

けれど、どうでも良くないものまで忘れてしまいがちになるのが深刻な副作用だと思う。

この間ある人と話しているときに、「忘れてはいけないこと」である私の信条に繋がる、ある出来事のことを全く思い出せなくなっていたことに気がついた。
信条はもちろん染みついているものなので表現に困らないのだが、それに至る出来事や人からの言葉が突っかかって出なくなってしまった。

怖いな、虚しいな、と帰りの電車で思った。
良くも悪くも感想はそれだけである。

信条自体は忘れてはいけない(忘れられない)ことなのに、それに紐づけられていたはずの、箱の外に垂れ下がっていた紐と、その先にあったはずの点が、いつの間にか融けていた。

なんとかその紐と点を元に戻すことができたので、固結びして、それは箱の中に入れておくことにした。




…戻した、ということは、箱の外に垂れ下がっていたそれは、本当は忘れてはいけないことだったのだろう。
その方が都合がいいから忘れようなどという一時の強い偏見で、箱の外に放り出してしまっていたのだろう。


一方で、人間とはそんなものだとも思う。

今まで感動したことの一体いくつを等身大で思い出せるだろうか?
自分は一体いつを生きているのか?
忘れてはいけないことを本当に全部さっぱり忘れてしまうのだろうか?

そんなことを考えれば、答えはわりとシンプルだ。


でも虚しいのは嫌なので、どこかにそんな思いを書き留めておくくらいはした方が良さそうだ。


だから、だらだらと思いの丈を書いている。