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ありのままの自分を受け入れて 私らしく生きる=自分を活かしてよく生きる

タイトルに付けたキーワードは、私が2013年に単身インドへ渡り、インドという国の文化や歴史の中に身を委ねてインド人と仕事や生活をしながら、また時にインドを拠点として自分が心惹かれるビーチリゾートがある国へ身も心も解放する旅をしたり、これまでの人生を振り返る時間を多く持ったり、ヨガや瞑想、Hinduに祈りを捧げたりする中で、ずっと頭の中を巡っていた言葉達でした。

自分が自分をどう思っているか、どう定義付けるか=どんなアイデンティティを持っているか、は自分の在り方と生き方=生き様の全ての根底にある一番大切な土台だと思います。

様々な出来事があり、他者を変えることは難しい、まずは自分自身を良く知り、自分から変わっていこうと決意し、今年の5月に知人のカウンセラーへ依頼して約1ヶ月のオンラインセッションを行ってもらいました。

そこで分かった私自身が定義していた自分のアイデンティティ。
それは、自分には価値がない、自分は愛されていない、必要とされていない、自分は何もできない、無力だ、孤独だ、その辺の家具と一緒、、
などでした。

10歳ごろから両親の不仲が始まり、私の青春時代の家庭環境は最悪でした。
両親が夫婦として、家族が家族として全く機能していない家庭。
両親はそれぞれ私と弟のことは両親なりに愛してくれたのだと思います。
しかし、日に日に夫婦喧嘩が絶えなくなり、二階の自分の部屋から時々聞こえて来る、テレビドラマの喧嘩のような音までが、全て両親の喧嘩の声に聞こえてしまうようになったり、下から両親の話し声が聞こえて来ると、また喧嘩が始まっているのではないかと、二階の自分の部屋の床に耳をくっ付けてそば立てて聞き耳を立てていました。様々な家の空気感、両親の表情、雰囲気、声のトーン、様々な要素に非常に敏感になっていきました。
今思えばそんな一触即発、殺伐とした家庭環境の中で、どうやって不登校にならず毎日中学校へ通っていたのか、朝起きてから家を出るまで、家に帰ってから寝るまでの間、家族とどんな関係だったのか、どんな話をしていたのか、自分自身は心の底から楽しいと笑ったり嬉しいなといった感情があったのか、ほとんど覚えていません。

感じすぎると心身崩壊して通常の学生生活を送れなくなると思ったのでしょうか、自分の心がなるべく傷つかないように、家の中では必死に「無」に徹してましたし、学校の友人達にも自分の両親が離婚寸前だなんて、惨め過ぎて言えてなかったと思います。

唯一、中学校3年生の時の担任の先生が、クラスの生徒全員と交換日記をしようと提案され、その先生にはその日記を通して両親について打ち明けた記憶があります。
そして、先生と母親の面談があった際に、先生は私が両親の不仲でとても悩んでいる、辛いという気持ちを母親に伝えてくれたと思います。
それから母親とその話をしたのかどうか覚えていません。
しかし、高校受験中も冷え切った両親の中、とにかく心を痛めすぎないように、無に徹して受験勉強も乗り切った気がします。
学校で仲の良いグループの友人達と過ごすことができ、日中だけでも家の外で気が紛れていたのでしょうか。

高校生の時は自分自身で動ける物理的な行動範囲も更に広がり、当時価値観の会うグループの友人達や恋人にも新たに出逢い、家の中のことを気を紛らわすことが多少できていたと思いますが、ついに私と父親との間に決定的なことが起こり、高校卒業までの3年間、父親とは一度も会話せず、目も合わせず、ほとんど会わないようにしていました。
もっとも父親もほぼ別居状態でしたので、元々あまり家には居なかったのかもしれません。
それでも、希望の大学に合格し、大学の学費を父親が出してくれると母親から聞いた時に、未だ父親を許せないけど、それでも経済的に援助してくれることへの最低限のお礼を伝えようと3年ぶりに父親と電話で会話し、その後少しずつ自然と話すようになっていきました。

改めて思い返すと、やはり中学生の時が一番辛かったです。まだまだ自分の行動範囲は親に頼ることが多い時期。思春期の時期に、もっともっと自分の心の内を相談できる家族関係でありたかった。
当時の私は、子供という自分のアイデンティティを諦めて、両親がこれ以上関係が悪化しないように必死に「調整役」に徹してました。
それぞれがこぼすそれぞれに対しての愚痴を聞き、それぞれの味方になって、、特に母親に対しては、むしろ私が大人にならなければいけない、と聞き役に徹し、ほぼ別居状態で父親がアパートを借り、家にほとんど帰らなくなるまでは、2人の雰囲気や父親のイライラを察知すると自然と自分にも緊張が走り、いつ大喧嘩が始まるのだろうと、今思えばいつも心と気が張り詰めていたと思います。

最後に家の中で心から大笑いしたのは、最後に家族団欒したのはいつだったろうか、思い出せないくらい。
普段優しい父親が、母親と口論になると「ここは俺の家だお前が出てけ!」などと言った声が未だに忘れられません。
なので、私は未だに目上の男性の強い怒り口調、人の怒鳴り声などに対してとりわけ敏感で心と身体が硬直してしまい、強い怒りと拒否反応が出てしまいます。そんな男性の圧力に負けたくない、経済的に男性に依存していると女性は不利になる、男性より強くありたい、などといった価値観が形成されていきました。

同時にこんな家早く出たい、16歳になったら好きな人と結婚し子供を産んで、若いお母さんになって自分だけの暖かい家庭を築きたい、とも思っていました。

または、大学は絶対地元ではなく東京の大学に行って家を出て一人暮らししよう。
新しい生活をしよう。

どちらにしても結局は早く家から抜け出したいと思っていました。
私より5学年も年下の弟はこんな家庭で大丈夫だろうかと残していくのは心配でしたが、、

結果的に弟は中学校でいじめられるようになり、不登校、ほぼ自宅学習で私と同じ進学高へ進み、高校からは再度学校へ通うことができ、塾にも行かず自力で大学進学することができました。
地元で就職したものの、ブラック企業で深夜残業、サービス残業、無理な量の仕事量や期日などが心身に負担がかかり、退職してからもう10年近くニート状態です、、
やはり中学生の頃、心療内科に通っており、弟も両親の不仲に心を痛めていました。
弟の壊れかけた心を治すために、無理やり家族皆で祖父母の田舎に行き、小さい頃は両親も仲が良く、心から楽しかった川遊びをもう一度してみたり、無理やりでも父と母が会話をしたりしましたが、、
やはり「無理やり」なので両親はギクシャクしたままだし、否応にもそれを敏感に感じ取ってしまう弟も私も結局辛かったです。
それから弟は表面的には人と会話できるものの、他者と深い交流はせず、半ば諦めているように見受けられます。
父の小さな工場を手伝うくらいで、30半ばで定職についていない弟もこれから大丈夫なのだろうかと心配しています。

弟のことで話が少しそれてしまいましたが、、

大学に入ってからは、サークル活動や広く浅い付き合いより、数名の友人や恋人との深いつながりや自分の興味のある分野の勉学に励んでいました。
新卒で就職後も一部上場企業の総合職で、男性に負けないように同じように働いてきました。
会社でいくつか賞を頂いたり、昇進をしたりと、自分の中ではそれなりに努力してその努力に見合った実力が付いたように思いました。
子供の頃から外国人や異国の地や語学に強
い興味と憧れがあり、その夢を叶えるため31歳で正社員のポジションを捨てて、何の保証もないインドの現地採用者として、単身現地へ旅立ちました。

経験した3社のうち、2社は日系企業。
日本で日本人を間に仕事をしていた時よりも、現地の日本人コミュニティは想像以上に結びつきが強く、日本にいた時よりもより日本人のビジネスのやり方で、主に自分が苦手とする日本人男性の50歳代くらいの目上の重役の方々を相手に仕事することになりました。

お世話になる反面、ゴリゴリのおじさま社長の下で指示を受けて、その要求通りになるべくいう通りに仕事をしていくことが、だんだん苦痛になっていきました。
こういう凝り固まったおじさま達から逃れたくてインドに来たのに、、全く逃れられないどころかむしろキャバクラの接待、同伴のような役割まで求められている!!
日本には帰りたくない、もう少しインドに身を置いていたい、飽きるまでインドにいたら、次はさらなる夢のアフリカに住もう、と思い、3社目は日本人が1人もいない、100%インドの現地企業へ就職しました。
ターゲット顧客は日本企業にはなりますが、それでも社内が全てインド人、自分が日本企業窓口の責任者として、これから日系企業の顧客を獲得すべく自分の裁量で仕事を任せてもらえる、自分にできるか不安もありつつ、やるしかない!やる気と希望に満ち溢れていました。

その矢先、数ヶ月後に妊娠がわかり、その企業では、貢献と挑戦が道半ばのまま、無事に出産し帰国するまでの間、休職することになったのですが、、

長女を妊娠して仕事をしなくなってから今日に至るまで、専業主婦4年目になります。
こんなに毎日家の中で過ごしているのも、大学卒業以来のこと。

ずっとずっと過去に負った両親の辛い出来事から自分が決めてしまった自己否定というアイデンティティを隠すように、外へ外へと自分を押し出していました。
どうにかこうにか自分は能力も実力もある、自分を好いてくれる友人も恋人もいる、だから自分には価値があるんだ、生きていても良いんだって思えるように、また他者からもそうよく見られたいという思いで、自分が納得いく社会的なキャリアを築けるように必死だったと思います。

確かに一生のうちに海外で暮らしてみたい、スーツケース一つ、パスポート、身一つで、いつでもどんな国でも働いて暮らしていけるようになりたい、と思っていたので、その夢の半分を実現できたことは本当によかったと思っています。

でも、自分のキャリアをどんどん突き進んでいても、心から満たされる感覚、充足感は完全にはありませんでした。

その要因は2つ。

1つは、色々と我慢して自分の感情やパーソナリティに蓋をして無理をした結果得られたものであって、本来のありのままの自分で、自分の心に矛盾することなく、違和感を感じることなく、自分のあり方、生き方と一致した働きをしてはいなかったこと。

2つは自分の自己否定から始まる、無価値である、愛されていない、無力、孤独、何もできない、などといったアイデンティティが根底にあるまま、それを見ないように覆い隠して本来と異なる自分を演じていたのではないかということ。

真の自分を覆い隠して得たものは、仮に他者から良い評価を得られて自分もしばらくは満たされる期間はあるかもしれないけれど、結局は自分自身が感じている枯渇感は払拭できないし、何より自分自身のあり方と生き方が一致していないので、満たされない自己との矛盾に苦しんでいくのではないかと思いました。

まずは辛くても惨めなく気持ちになっても醜くても、自分のアイデンティティを自覚し、それを決めたいくつかの過去の出来事をもう一度振り返って自分の人生を見つめ直すこと。
1人でやり切るにはかなり強靭な精神力、客観的な分析力、メンターのような役割が必要だと思うので、辛くなったり挫折しそうになったら早々と自分に合いそうなカウンセラーに相談した方が良いと思います。

自分のあり方と生き方を一致させる。
そのためにまず、ありのままの自分を知り受け入れる。過去に負った癒えてない傷があれば、やはりただ絆創膏を貼り続けて化膿が悪化しているのを見て見ぬ振りして隠し続けるより、きちんと適切な治療を施すこと。
醜くても惨めでも辛くてもその感情を味わい尽くすこと。これらの気持ちを苦しいからといってないものとして見て見ぬ振りし続けると、自分に対しての不信感、自信がなくなってきますし、自己不信が他者不信へとも繋がっていくと感じています。

辛い、悲しい、苦しい、寂しい、孤独、怒り、憎しみ、恨み、などネガティブな気持ちにも蓋をせず、あぁ自分はこんなこと感じているんだ、とありのまま感情を見つめて受け止めてみること。
そして、子供の頃1人うずくまって誰にも頼れず泣いている過去の自分に、とっても辛かったね、今まで1人でよく頑張ってきたね、などと、自分自身で慰め癒してあげること。
これでもかというほど負の感情を出し切って味わい尽くすと、不思議なことに少しずつ、溜まっていた負のエネルギーや感情が成仏していって、少しずつニュートラル=中庸の自分を取り戻すことができると思います。

その過程に自分自身がいる今、今後自分がどうありたいか、そのあり方と一致した生き方って?ということをこれからもう一度考えていきたいと思っています。

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