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備忘録 母との確執について《前編》

「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」

カナダの精神科医エリック・バーンの有名な言葉だ。私はこの言葉が大好きだ。これを知ってからは生き方が楽になった。何かから解放された。昔より、少しはマシな人間になれたと思う。

この言葉を知るまでの自分は、とても愚かな生き物だった。他人を変えたくて、でも変えることができなくて、イラついて、悔しくて泣いた。過去の汚点を反芻して、勝手に悲しくなって腐った。どうにもできないことに囚われて、負の感情を体にため込んでいた。

実家にいるときは本当にひどかったと思う。苛立ちの対象は家族、友人、ゼミ仲間、恋人、バイト先の人間など、周りにいる人すべてだった。他人に対して「なんで私の思った通りに動かないの?」「こうしたらもっといいのに、なんでしないの、馬鹿なの?」「頭おかしい」と本気で思っていた。

馬鹿は、私のほうだったのに。

特に、母親との折り合いが悪かった。少し会話するだけですぐに喧嘩になった。いまではわかる、同族嫌悪だ。お互いに、「自分が正しい」「他人が私の思った通りに動かないはのおかしい」と本気で思っていた。

母は、私のやること全てに口を出してきた。進学先も、恋人も、就職先も、彼女の理想からはずれるのが許せなかったのだろう。私は当然反発した。「なんでそんなこと言うの?頭おかしい」と。私も反発することで母を変えようと思っていた。反発したら、母が折れると思ってたのだ。正面からぶつかっても一向に考えを変えない母をどんどん嫌いになった。

けれど、頑なに自分の意見を通そうとしてくる母を完全に嫌いになることができなかった。母に対して同情するところがあるからだ。

母は外国人だ。

22歳で、年の差が24歳ある父と結婚して日本に来た。そして23歳で私を妊娠・出産し、年子で妹、そのあと3年あけて弟を産んだ。言葉もわからず、友達もいない土地での子育ては相当キツかったと思う。しかも3人。それに加え、世の中は今よりも「外国人」に対して厳しかった。「外国人」であることで差別を受けたこともあっただろう。まして実家は田舎にある。封鎖的な環境で「違う」というのは辛いものだ。

ハーフである私もその差別にあった。

小学生の時、児童館で遊んでいるときのことだった。一緒に遊んでいた男の子に「半魚人」と言われた。男の子の意図するところは、「半分」「ハーフ」ということだった。気の強かった私は、内心傷つきながらも「なんだよそれ!」と笑いながら言い返した記憶がある。

またある時、図書館で本を読んでいたら隣に座ったおじさんが話しかけてきた。何を話していたかは忘れたが、明らかにこちらを下に見るような、馬鹿にするような話し方で「外国人か?」と聞かれたのを覚えている。とても深いだった。

他にも、小さな差別がところどころに転がっていた。もしかしたら私が考えすぎだったかもしれない。敏感すぎたところもあるとおもう。相手は差別したと思わないようなささいなことだったかもしれない。けれど、「外国人」である母親や「ハーフ」である自分が恥ずかしいものである、忌み嫌われる対象であると思わされるには十分だった。

私のため込んでいた鬱憤は時々爆発し父親にむかった。

「なんで母親と結婚したのか。ハーフとして産まれたくなかった。母親が外国人なのが恥ずかしい。」

そんなことを父親と車で二人きりになった時に訴えたことを覚えている。自分ではどうすることもできないことに憤慨していた。

「恥ずかしい思いをするのはお母さんのせいだ。」と本気で思っていた。

「ハーフ」である自分が思うほどだったのだから、「外国人」である母への風当たりはもっとひどかったに違いない。

母の精神状態はおかしくなっていった。

よく独り言を言っていたし、隣から悪口が聞こえてくると怒っていた。外食中も、周りが悪口を言ってくると怒り、ぶつぶつ独り言を言っていた。

私は大人になるにつれて、言葉の通じない、友人も家族もいない土地で、ほぼワンオペで子育てし、精神を患う母はかわいそうだと思った。同情した。

だから、どんなにイラついても、許して、普通に接していかなければいけないと思うようになった。

「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」

この言葉を知ってからは、一層、自分の捉え方や接し方を変えて、母親に優しくすることが自分と母親のためだと思った。私が大人になれば、お互いの衝突を減らせるのだと思っていた。

けれど、私の考えは甘かった。

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