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竹生島④

竹生島③では長浜城と方位を記して締めた。
まだまだその続きがあるので綴ってゆく。

陰陽道。陰陽師。
陰陽師といえば安倍晴明!
だれもがご存じの人物だか、陰陽道、陰陽師とは一体何をしていたかはっきりと分かってる人は少数なんじゃないかな。私も悪霊退散!と呪術を使ってる人としか思いつかない。金スマの影響??

陰陽道とはちょっと調べました。
今回は私の感性より知識の蓄えとして綴るので
詳しい方には申し訳ない。。です。
所々自分視点も交えながらを意識します。

陰陽道とは、古代中国から日本に伝わった「太一陰陽五行思想」を基盤としながら、安倍晴明公含む陰陽師によって、日本独自の発展を遂げ、森羅万象の成り立ちや因果関係から吉凶を判断する易の思想・理論です。
陰陽五行思想は、紀元前300年頃の古代中国の陰陽家 鄒衍に始まります。 初めて正式に日本に伝来したのは、日本書紀によると、継体天皇7年癸巳(513年) の7月、日本から要請した百済の五経博士の渡来とともに入ってきたとされています。 養老2年戌午(718年)に、中務省の管轄の下に陰陽寮が設置されました。そこでは、陰陽博士、暦博士、天文博士、漏刻博士、その配下に陰陽師等が置かれ、天文・暦数・風雲の気色等を常時、観測・占筮し天皇に奏したり、学生たちに陰陽五行思想の指導を行なっていました。

簡潔に書かれているけど、⁉️っな程度。
ピンとこなかったのでもう少しだけ深掘り。

陰陽師とは当時の最先端科学技術機関。
陰陽寮の官僚だった。つまり国家公務員。
エリートである彼らは天文観測、天変地異の予測をして天皇に奏上し、暦をつくり日々の吉凶を示し時刻を管理していた。同時に占いによって土地の選地などを行う国にとって欠かせない存在だった。
そして陰陽道の基になっているのは中国で生まれた易や陰陽五行説。
日本にそれがもたらされたのは六世紀。継体天皇七年(513年)。『日本書紀』に記述がある。
さらに欽明天皇十四年(553年)日本から百済に使者をやって〔医博士、易博士、暦博士は当番制により、交代させること、ト書、暦本、種々の薬物などを送ること〕を依頼している。六世紀の日本では中国から直接ではなく百済を経由して陰陽五行説を輸入していた。

ではいったいこの陰陽五行説や易とは何なのか。


陰陽勾玉巴

これは陰陽太極図。太極は中国の宇宙観で「最も根本となるもの」という意味。
世界の全ての事象、森羅万象は陰・陽の二極に分類するという陰陽思想「陰が極まって陽となり、陽が極まって陰となる」を図であらわしている。
この両者は対立し固定されているのではなく、互いに影響しながら循環する。ぐるぐるまわっていく。

しかし、世の中が複雑になると、二元論では説明がつかず。そこで五行説が生まれた。
世界の全ては五つの元素、木・火・土・金・水で成り立っているという「五行説」と「陰陽説」とが結びつき、五行も循環するという考えが生まれた。
木が火を生み、火が土を生み、土が金を生み、金が水を生み、水が木を生む。
というように五行のそれぞれが順に別のものを生み出していく。これを『五行相生』という。
逆に五行のそれぞれの要素が別のものを滅ぼしていくという考えを『五行相克』という。


大韓民国の国旗

これは八卦から生まれた易によって調和と平和への願いを意味している。

易とは…
殷(いん)という中国にあったとされる王朝の時代
軍事、祭祀、狩猟,天候など国家的行事の吉凶を占う卜占(ぼくせん)という風習があり、その卜占の道具として亀の甲羅や牛の肩甲骨を使っていた。事前に占う内容を亀甲や骨に刻んでおき、それを熱して生じた「ト」の形に似たひび割れから吉凶を判断する。
これは亀甲や骨のひび割れに統計性と偶然性という相反する要素を織り交ぜ、神の領域を占っている。統計的な考えから偶然的な事象を先読み、分析し森羅万象真理を知ろうとした。

日本でも未だに行われていますね。かの有名なむっちゃん先生と関係してます。

しかし、それだけでは表現が足りず、


女媧と伏義
定規とコンパスをもっていることで有名ですね

古代中国の神話に登場する男神の伏義(ふくぎ・ふっき)が『河図』を編み出し、万物の真理を『八卦』で構成されると考え生み出した。

☰ 乾(天)
☱ 兌(沢)
☲ 離(火)
☳ 震(雷)
☴ 巽(風)
☵ 坎(水)
☶ 艮(山)
☷ 坤(地)

陽は横一本線の「⚊」を用い、陰は横に二本線の「⚋」を用い、陰陽を2つ重ねて作ってできる4つは(⚌・⚍・⚎・⚏)で四季を表す。


さらに細かく事象を表現するために陰陽を3つ重ねたものが八卦。

陽の中の陽である『乾』から陰の中の陰である『坤』の間に六つの陰陽の組み合わされた要素があり、『乾』が天を表し、『坤』が地を表し、ほか六つも上記を表している。

この八卦によって自然現象・方位・人の性質や心情など、この世の多くのことを表現できるようになった。

八卦によって様々な事を表現できるようにはなったが万物の真理をより精密に説明するには八つではとても言い尽くせるものではなく…


そこで☰☰や☷☷のように、八卦を2つ並べてできる8×8=64通りの卦である六十四卦が周の文王によって作られた。これを『周易』といい、儒教の主要テキストとなって『易経』と呼ばれるようになる。

六十四卦を構成する陽と陰の横線は6本あり、なんとこの1本1本にも意味があるので64×6=384通りの表現の幅が易にはあるということになる。



易を基に様々な占いを発展させ行う陰陽師。変事の前兆を教えてくれ、祭りや祓いによって厄災から身を守ってくれる彼らは人々にとって頼もしい存在だった。
その反面そうした異能力によって呪禁で疫神や鬼を祓うことができるように、人間を殺すこともできると信じていた。この様に恐ろしい存在でもあり、陰陽師に殺害を依頼するものもあったという。
桓武天皇の側近や藤原道長はその怨まれ呪われた人物ともいう。
時の権力者は呪い呪われ、いかに力のある陰陽師を側に置いておくか懸命になっていたのであろう。
その上、平安時代には『天変地異は個別の祟りではなく、天の叱責により起こったもの』という儒教的な考え方ではなく、権力者が罷免されることがないよう『天変地異は怨霊の祟り』とすることで自身の責任を回避しようとした。祟りならば祭祀や祓で済むと考えたことから些細な事で陰陽師が呼ばれることが多くなった。

室町時代になると陰陽師は長きにわたる応仁の乱の影響により危機的状況となる。公家にも武家にも戦によって余裕がなくなってきたからであろう、陰陽師の収入源であった祭の要請が激減し天変地異があっても吉凶を占う依頼もなくなっていった。安倍家(土御門家)も京にはいられず逃れていった。
これに対して、暦の需要は増えていった。
暦道の家である賀茂氏は暦を大量につくっていった。
古代中国からの習わしとして天から認められた支配者は時をも支配者する者でなければならず、日本でも天皇が陰陽師に暦をつくらせた。天文観測によって暦をつくり、天皇が配布した暦を民が使うことは、天皇の支配下にあるという意味がある。
だが、平安中期以降天皇からの暦の頒布は崩れ、有力貴族は賀茂氏のような陰陽師個人から直接手に入れるようになった。
戦乱が続くようになるにつれ権力者は暦を手中に収め、時をも支配しようとしていたのだろう。
戦国武将織田信長もあの本能寺の変の前日に朝廷の暦(京暦)に編成をするよう要請している。この暦問題によって暗殺が計画されたと言われてもいる。
実は信長は土御門家と縁戚関係をもっていたらしく、このことから信長は陰陽師と精通しており、暦に対する知識も相当だったと思える。


そして、この戦国時代には陰陽師は存続の危機に追い込まれていくことになる。
その基となる人物…

そう、豊臣秀吉。
私はこの武将を陰陽師に喰われてしまった人と思ってしまう。豊臣秀吉と陰陽師との関係。面白いことがみえてくる。

秀吉は子供に恵まれなかった。
そのこともあって数打てば当たるかの様に側室を多くもうけた。これが女たらしと言われる由縁だ。秀吉は全国統一を果たし、豊臣の血脈を存続させる為嫡男を授かることは最重要だった。
その側室の1人となったのが浅井長政の子茶々(淀殿)だ。

秀吉は浅井の領地を与えられた頃に何かを知ったと以前記したのだが、この側室の相手選びにも繋がっていると思う。
私が思うに…
秀吉は浅井家の血(DNA)が欲しかったんじゃないだろうか。豊臣家の血と浅井家の血を交えたDNAを誕生させたかった。
もしかするとこれが全国統一、世界統一になると考えたのかもしれない。

それを果たすべく陰陽師との関わりも一層濃ゆいものとなっていった。

茶々を側室にむかえた秀吉は2人の間の子を授かることになる。

豊臣鶴松
(捨、棄、捨丸、棄丸、於捨、鶴松、八幡太郎)

豊臣家嫡男として1589年7月9日淀城で生まれる。
「捨て子は育つ」と言われていたことから、捨丸と名付けられる。その後、後継者として育てるべく、母、淀殿とともに大坂城へ移される。
しかし発病により、病気平癒の祈祷や、全国から名医を集め治療を行うが甲斐なく
1591年9月22日(享年3歳)死没。
秀吉の落胆ぶりはかなりのもので、その場で髻を切り落とすと、徳川家康や毛利輝元ら大名たちもこぞって髻を切り落としたという。


だが、しかし。
淀殿が懐妊したということは当時からしても異例のことだった。淀殿以外に子を授かった側室はひとりもいないのだ。
《秀吉に子ができた》そのこと自体がありえないほど秀吉には種がなかった。では何故淀殿は懐妊したのか。

お家公認の浮気
その当時、家を維持していく為に夜祭が行われることは稀ではなかった。
神社やお寺で開かれる祭りである為神や仏公認でもあり、民俗習慣と考えられていた。
子がない夫婦に子が授かる仕組み、可能性の場をつくられていたのだ。
それを民俗事例で参籠というのがある。
参籠の場で複数の男女が交わって命を授かろうとしていたという。
民俗的宗教的陶酔をつくり出すのは僧侶ないし陰陽師だった。

秀吉も自分の体を認めていたのだろう。
自ら淀殿に参籠の場をもうけ、実子ではないが秀吉公認の子を授かろうとしたのだろう。

だか、一つ注意することがある。
秀吉は豊臣の血と浅井の血を交わすことが原則。
誰でも言い訳ではなかったと思う。

そこで注目したいのが豊臣秀次(秀吉の甥)。
この彼が巻き込まれていくこととなる。。

まだまだ続く。
竹生島⑤へ。







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