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台風一過

深夜の居酒屋に似合わない男女が存在した。

この二人のいるのが、スペイン風のバルや深夜営業のトラットリア、ひっそりと構える割烹ならまだよかったが、そのどれにも当てはまらない。
古くさい畳敷きの掘りごたつの座敷、カウンターと壁にはタバコのヤニが染み付いたマジック書きのメニュー。
いつ、どこの誰かも分からぬアイドルが水着でビアジョッキを構えたポスターは退色してセピア色になっている。
14インチのブラウン管テレビはデジタルの波に乗れずに神棚の横で沈黙したままそこに鎮座し、まるで神器のように頭上に両目の入ったダルマを載せていた。

明朝まで営業しているらしい酒場にしては驚くほどに人の気配がない。
その筈で、雨風が強く外から響きゆるやかな騒音としてたえず店内を包んでいて、トイレ横に据えられたラジオからは固い声質の男性アナウンサーが雑音混じりに、公共機関が台風で運休が決定したことや、不要の外出を避けることなどを伝えていた。

彫りの深く浅黒い顔をした男は、眠たげな顔つきをしていたが、そこにあっても嫌味なほどきらついた瞳で、テーブルの上にある煮汁が膜を張りかけた金目鯛を食べるでもなく繊細に解体していた。
美を引き受けた代わりに、物憂げという態度を選択したような雰囲気の黒い髪の女は、それに目を留めるわけでもなく頬杖をついているが、スカートから伸びたストッキングに包まれたつま先が緩慢な動きで男の脛を小突いている。
やがて箸を手放した男の右手は、女の行き届いた退廃的なローズのマニキュアに軽く触れる距離まで伸ばされた。

小さな声でぼそぼそと語り合っては軽く笑いあったり、時折じゃれつきのような口論を宙にならべている会話が、呼吸をするように勢いを増減する雨風の中で、断片的にすくい上げられていった。

「それにしても間抜けだね、こんな所で取り残されるのって」
「そうでなかったら、どこかに行ってました?」
「『そうでなかったら』」

言葉の尻尾を捕まえた男が、呑み込むように女の視線を絡めてから小さく爪の先をつついた。
「ここに居ても、どこかにしけこんでも一緒だよ。夢に化かされてる以上は。始まってから終わるまでの輪郭をきちんと捉えられる奴なんか、いやしない」
「また、訳のわからないことを言う」
呆れたような女の口調は上辺だけで、むしろ男の言葉を口の奥で転がして煩悶しているようだった。
男の分厚い掌が、不意に伸びて女のうなじに添えられて二人の距離が視線の行き交うままに固定された。
その交信の磁場に負け、ラジオはついに雑音を細めたっきり潮騒のように遠ざかった。

「つまりさ、するとか、しないとかってのは結果でしかない。その距離感に陥ってしまったら、最後に打たれるエンドマークまでただ数えるっきりじゃないか。残り火のようなもので」
女の唇の中から、水を求めるように舌がくねり。小さな声を出す。

「じゃあ、今はその距離?」
男は答えず、ジョッキのぬるくなったビールで口を湿らせた。酒精の混じった息とシャツの中から逃げ出した熱が混じり、どちらかの身じろぎの音は雨に消された。

「宝くじ、クリスマス、夏休み、旅行計画。ぜんぶ、始まるまでのほうが楽しいものさ」
「それが終わった後はどうするの」
「どうしようか。バカンスにでも行って考える?」
投げやりに言ってみせた男の明るい口調とは裏腹に、それ以上の会話は諦められていて。置き去りにされた視線を先にはぐらかせたのは女の方だった。
「そんなの、ずるい」
「ずるくないと、人生やってらんないよ」
「私はそうは、思いません」

噛みつくような鋭い口調を最後に、豪雨が全てを洗い流して。そして後には暗闇しか残らなかった。

────。

企業ブースの体験コーナーに置かれた大げさに金属の光沢をはなつ、二つの密閉型の筐体。
カプセルホテルの寝台のようなドアが開いて、そこからどうにもぱっとしない、二人の男女がそれぞれから現れた。行列待ちの人々を背に、展示スペースから遠ざかると筐体の上に表示された文字列には
──恋愛経験機
と銘打ってあった。

振り返った男女は茫洋と眺めていたが
「これ、売れそうだね」
男が呟くように言って。
女はスマートフォンでどこかへ掛けると、予定がずれ込みそうなので今日は直帰にします。と端的に告げた。
二人はそのまま、出口へと影を伸ばしていった。

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