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想像力を育てるのは小説じゃなく漫画

「読書は想像力を育てる」なんて、いったい誰が言ったのだろう? この場合の「読書」とは、おそらく小説を指している。

小説を読むと想像力が育つ? そんなのはウソだ。小説を読んでも、想像力は育たない。文章だけで想像力を育てた人がいるとしたら、駄作ばかり読んでいたのかもしれない。


たとえば私は、「漫画」を上手く理解できない。「漫画の本」自体は好きなのだ。好きではあるのだけれど、半分以上を理解できない。漫画というのは省略の表現手法だからだ。行動の多くを省略し、象徴的な場面(というかポーズ)だけを描いている。省略された部分を想像力で補わなければいけない。なけなしの想像力をフル回転させて、何が起きているのか想像してみる。しかしいくら頭を使っても理解できなくて、「実況中継テキストくださーい」となる。

出来事を丁寧に実況中継してくれるテキスト、それは小説だ。小説に想像力はいらない。すべて、書いてあるのだから。良書ほど、表現している情景は明瞭である。想像の余地はない。過保護なくらい、詳細に丁寧に書かれている。


親が漫画もTVも嫌ったため、私はずっと文章ばかり読んで育った。これほど偏った幼少期を過ごした人も珍しいと思う。

「小説を読むなんて偉いね」とよく言われたけれど、小説を難解なものと勘違いしていないだろうか。小説はとても簡単だ。心の中で思ったことまで、丁寧に言語化されている。小説の中の登場人物は、分かりやすく、付き合いやすい。

ところが、実生活の中では、思ったことを口に出さない人が多い。みんな、何を考えているか分からなくて不気味だ。

「空気を読め」と言われるけれど、「言葉にして表現されていない心情を察するなんて神様なのか?」と思う。隠し事のない小説に慣れきった私にとって、生身の人間はとても難しい。最近は年を取ったせいか「言わないなら知らない」と割り切っているが、若いころは、この想像力のなさにとても苦しんだ。

子どもの頃に育たなかった想像力は、大人になっても育つことはなく、今でもテキストの本ばかり読んでいる。たまにライトノベルのコミック版を読んでみるけれど、どうにもコミック版は何が起こっているのか理解できなくて難解だ。結局、小説を頼ってしまう。小説の助けを借りずにコミック版だけで頑張ってみれば、少しは想像力が育ってくるのだろうか?


テキストで書かれた文章は、「書かれていることを解釈する」という論理的な思考を育てることに向いている。けれど「書かれていないことを想像する」というクリエイティブな感性を育てることには向いていない。ゼロから何かを生み出す躍動的な思考を育てたいなら、断然「漫画」だ。

学校は夏休み。文章に触れることも大切だけど、漫画もたくさん読んで、自由な大人になってほしい。まあ、何事もバランスが一番大事。