(無題)

姉さんのことを思い出すとき、必ず浮かんでくるのはギターを弾く姿だった。
日曜の昼下がりにリビングのソファに座って、愛用のアコースティックギターをまるで赤ん坊を抱く母親のようにしながら、気持ちよさそうに弦をはじく姉さん。
僕はその姿が好きで、だから姉さんがギターを弾き始めるとすぐにそばに近寄って、その手の動きを飽きることなく見つめていたものだった。


『――これはね、とっても大切な曲なの』

ある日。
いつものようにソファに座った姉さんがそう言って弾いてくれた曲は、小学生だった当時の、音楽なんてアニメや仮面ライダーのOPくらいしかよく分からなかった当時の僕にとって、その後の人生を大きく変えてしまうくらいに衝撃的な曲だった。

かっこよくてせつなくて、でもどこか悲しげで。
姉さんがギター片手に弾き語ってくれたその曲は、愛おしそうに歌う姉さんの歌声とセットになって、僕の中の大切な場所のドアを軽やかにすり抜けて、そこにうずくまっていた僕をそっと抱きしめてくれた。

――そう。
姉さんはその曲で、僕を抱きしめてくれたんだ。
その時も、今も。


『これ、まだ未完成なんだ。私ね、今、大切な人と一緒にこれを作ってるんだ。だからね――』

そう言って僕の頭を優しくなでた姉さんの顔は、たぶん笑っていたと思う。

『完成したら、一番に聴かせてあげる。姉ちゃんのファン第一号だしね』

間違いない。
姉さんはその時、確かに笑っていた。
少し悲しそうだったけど、笑ってたんだ。



姉さんが死んだのは、それから数日後のことだった。
家からずっと遠く離れた海岸線を車で走っていてカーブを曲がり切れず、そのままガードレールをぶち抜いて崖下の岩場に転落し大破したんだ。

幸運なことに、当時姉が愛用していたギターケースが耐火性の頑丈なものだったおかげで、ギターケースの中に入っていたギターや手帳などから姉さんの素性が判明して、だから次の日には僕たちは姉さんに再会することができた。

――いや、姉さんだった『と思われる』ものに。



あれから僕はギターを弾くようになった。
でも姉さんのようになりたいから、とか、姉さんの影響で音楽が好きになったから、とかじゃない。

あの曲を忘れたくなかったんだ。
姉さんが弾いてくれた、あの曲を。
姉さんが大切な曲だ、と言っていた、あの曲を。
姉さんが大切な人と作っている、と言っていた、あの曲を。


どうしてあの日、姉さんはあんな遠くまで車で向かったのか。
どうしてあの日、姉さんは普段ならありえないスピードで車を走らせていたのか。
どうしてあの日、姉さんは死んでしまったのか。


答えはきっと、この曲にあると思っている。
姉さんが名も知らぬ『大切な人』と作っていたという、この曲に。



両親はあの日から音楽を嫌うようになっていたから、うちには録音できるような機械が何もなくて。
だから姉さんのギターをこっそり持ち出して。
誰もいない公園で記憶を埋めるようにメロディを拾い上げて。


そしてあの曲をすべて思い出したころ、僕は高校生になった。姉さんのギターと、姉さんの遺した曲といっしょに、僕は高校に入学したんだ。

彼女たちと出会う、この高校に。

(Next……?)

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