無題、という名の。
このアカウントを引退してから、もう8年になる。
こんな辺鄙な場所で8年も放置されていた記念館にも意外と人がやってきているのがもはや驚きでしかないが、それでも少しは誰かの役に立ててるのかもしれない、と思うと、遺しておいて良かったのかもな、と少し思う。
ちなみに、私がこのような形で文章を書くのもまた、数年ぶりとなる。
ここを離れた後、ただひたすらニコニコやYouTubeで動画を作り続けてきた私にとって、物書きという趣味はもはや大団円を迎えた物語と同様に、これ以上書き連ねたところですべてが蛇足でしかない、と考えていたからだ。
ならばなぜ、8年が経った今再びこのような雑文を書き連ねているのか――というと、別に深い意味はない。
久しぶりに自分の書いた『リトライ』を読み、なんとなく衝動的にテキスト作成ページを開いただけのことでしかないからだ。
だからここから先の文章は、単なる蛇足であり、駄文であり、初老に入ったオヤジの独り言でしかないことを先に表明しておく。
9年前。
このnoteに来た時、私は物書きとして抜け殻のような状態だった。
自分の中にあるネタは枯渇し、パソコンの前に座っても何も思いつかない抜け殻だった。
そんな時にここの存在を知り、それまで4年間にmixiで書きなぐってきた拙作を補填し保管する場所として使えないかと考えてここにやってきたのだ。
――拙作。
そう。
今となっては自分の作品が、少なくともたくさんの人に読んでもらえるような傑作ではない、という自覚がある。
いや、むしろその自覚は当時からあったのだけど、8年を経て距離が置けるようになった今と当時ではその意味合いが全然違っている。
当時は自分が、読んでくれている読者のために書いているものだと思っていた。少数でも自作を読んで感想を書いてくれる人がいて、その人たちが喜んでくれるものを書き連ねている、と思っていた。
でも今は違う。
今この記念館に足を踏み入れてみて改めて思う。
今ここにある私の作品は、
すべて私のために書かれている作品なのだ、と。
『リトライ』。
当時はとにかくアカペラを題材にした小説が書きたい、私が追い求めていた『後悔と再生の物語』の終着点になるような作品が書きたい、という衝動から書き上げたこの作品を、実は私はこの8年間で何度も読み返していた。
この、小説は一度読んだらたとえ大好きな作品でも二度と読まない私がだ。
たとえ他の誰も読んでくれなくとも、
私が何度も読み返したくなる作品がそこにある。
そしてそれは、過去の私が紡ぎあげたものなのだ。
この時代。
作品のほぼすべてがコンテンツとして消費されるこの時代に、それでも創作活動を続けている人たちに伝えたい。
自分が心の底から形にしたい、と思った作品は、たとえどんなに時間と労力がかかるとしても、形にしておいた方がいい。
それがたとえ100%思い描いた形にならなかったとしても、
数年後の自分にとってかけがえのない作品になりうるのだから。
――などと、本当にどうでもよいことを書き連ねてしまった気がするので、この辺で仕舞いにしておこう。
たぶんもうこれ以上蛇足に蛇足を重ねることはしないと思うので、勘弁していただきたい。
では、これにて。
追伸。
久しぶりにテキストnoteを触ってみたが、以前と比べてずいぶんと進化しているなと感じた。
noteそのものについてはいろいろ思うこともあるが、システムとして進化し続けているというのは良いことだと思う。
ぜひこのままいつまでも存続していただきたいものだ。
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