蝦夷襲撃に備えた防禦施設

多賀城は宝亀十一年に伊治城反乱後に襲われ焼かれています。
多賀城は国府ではありません。宮城県大崎市宮沢遺跡が多賀城跡と考えられます。多賀は名取以南十四郡から離れた大崎市北部にあったのです。
多賀城碑出土地は多賀城跡地ではありません。
多賀城碑は偽物です。神亀元年に大野東人は未だ按察使や鎮守将軍に任ぜられていません。碑文に虚偽が記されています。
伊治城反乱で国司等は国府(信夫郡)に逃げ帰り、征東軍を賊地へ送り込もうとしましたが、苅田蝦夷が呼応し騒ぎ、征東軍北上を妨害し、国府(信夫郡)へ侵攻する恐れがあったので、防禦施設を造りました。国見防塁です。
苅田蝦夷族長の帥は夷大墓公呰麻呂、磐具公母禮です。
苅田の逆賊は国見町光明寺東越山(あずこしやま)に砦を築き征東軍の北上を妨げ、征東軍は国見町大木戸付近の林を切り開き深い溝と険(土塁)を築き逆賊の国府域(信夫郡)侵攻をふせいだのです。
東鏡文治五年八月の条には、藤原泰衡が俄に東越山(あずこしやま)「阿津賀志山」に城壁を固め、国見の宿との中間に深い堀を作り阿武隈川の流れを積入れたとありますが、嘘です。宝亀十一年に逆賊と官軍が造った遺構を利用して虚構を書き上げたのです。国見防塁と阿武隈河の標高差から流れを咳き入れる構造になっていません。当然、阿津賀志山の戦い、多賀国府、平泉の土ばかり残った藤原三代の居館跡、等は虚構です。

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