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しあわせのとんぼよ、どこへ

私・イシカワ・みー・あいちゃん・よっちぃ・ジュンコ
これが私と小中学校でつるんでる面子。
イシカワは高校まで一緒。

そして、教員の左遷先であり、昭和50年代の住宅地・農家・貧困層を包括する、学級どころか学校崩壊の中で一緒に学校にいた。

そして、皆それぞれに家庭に問題を抱えていた。

強いて言えば
「両親がいて、家族仲が良い」
ジュンコだけど、それでも弟が問題行動を起こしがちなとこから、不登校なのだけど。

まず私は未だ自覚はないが虐待児だ。
手をライターであぶられた跡は今でも残っていたり、何かあると窃盗でもこんなにしない、というくらいに家探しをされた。
父親の説教は1〜2時間は続き
「お前、このままじゃ肉便器になるぞ」
はさすがに娘に放つ言葉ではないなと当時も思った。
そして、怒るといつ鎮まるかわからない親に、ドアの開け締めや足音で感情を判断する日々だった。
過食嘔吐も数年続き、喉を胃酸や指で傷つけ、喘息持ちなのもあり、ハッキリとした声では短時間しか話せない

一番酷いのはみーだと思う。
学年で一番小柄だからいじめられては泣いてた。
大縄跳びの縄でぐるぐる巻きにされ
「サッカーボールだー」
と男子4人に蹴り飛ばされた姿は忘れられない。
家には化粧が派手なお母さんと、普通のおじさんのお父さんがいたが、良く考えればどちらも家にいるというのは、夜に仕事があるか、何らかの事情があったのだろう
みーは率直に言えば成績も下から数えた方がはやくて、不良が集まる高校に進学すると聞いた時に
「こいつ絶対ヤンキーになるだろ」
と思ったのだが、意外にもそうでもなく、たまに皆で会うと昔より明るくなっていてホッとした。
けれど卒業後すぐ、妊娠をした。相手が彼氏だということに安堵した自分も邪悪だ。しかし流産してしまった。
もう一度同じ相手の子を妊娠し、今度は女の子を出産したが、父親に逃げられた。
なんだかんだ周りが手を貸し、娘が小学生になった話までは聞いた。
娘は今22才な筈だ。

イシカワは高校時代、私より成績が良かった

けど家の経済的事情や、両親が高齢で、父親がタクシードライバーで、自分のために無理をさせられないと、専門学校に行った。
私は大学に進学したのに。
更に妹が統合失調症にかかり、電話をすると妹が歌っていた。
最初はギョッとしたが、じきに歌が聞こえない時が不安になった。
ある時、妹は症状の悪化から家に火をつけ、自宅は半焼し、私はお見舞いに自宅に寄った。
良く八つ当たりのメールが来た。
余りに攻撃的な文体になってきたので
「つらいなら話を聞く。あんま気の利いた言葉はかけられないが、」
と返事をしたら
「あんたはいつだってそうだ!人の心を読めて、さりげない親切ができて、私より美人だし、不思議なことをしても許されるあんたに私は嫉妬していた」
そのメールに絶句してしまい、返事ができず、そのままでいる。

あいちゃんは父親が大工なので、雨の日には仕事が休みだから、8畳くらいのプレハブ小屋みたいな家で4人家族で暮らしていた。
1部屋と台所しかない家で、プライバシーとかないし、どう生活しているのかわからなかった。
でもあいちゃんも彼女のお姉さんも、明るくて気丈だった。

よっちぃは期間工のお父さんと一緒に青森から来たけど、当時オタクは犯罪者と呼ばれる風潮なのに、ゲーム好きを自己紹介で言ってしまい、転校した初日から、青森へ帰れ!と言われた。
「東京の近くだからどんだげ都会かど思っだら、何どもねえ、おらさの町の方が賑やかだ」
と、雪国の都会という、今まで想像したことがないものを考えることになった。

私を可哀想、良く生きていたね、と言う人はかなり多い。
でも私にはピンとこない。
何故なら、友人たちをどの位置にして良いのか混乱するからだ。
私が
「よく生きていたね」
ならば、彼女たちだって
「よく生きていた」
じゃないのか?
私だけが特別じゃない。
特別にするなら
「私たち」
を特別扱いしてくれ。

学校でいじめられて悲しかったり、家の事情をあけっぴろげにして愚痴ったり、時に悔しくて泣いた、死にたいとさえ言い合った私たちを。

最後に会ったのは20才のとき、もう20年以上前になる。

お酒を飲みながら近況を語りあって、みんな義務教育時代より明るくなっていた。
あのままの明るさとテンション、いやそれ以上がいい、とにかく幸福であればいいと願う。

泥の中で育ったヤゴが、やがて蜻蛉になり、スイスイと青空の下で飛ぶような幸せと、飛べる羽と風があることを。

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