ゆたんぽナイトメア

ゆたんぽナイトメア  与謝野


ビスコとわたし
リンゴ
出会いのない旅が素晴らしくない旅だというわけではない。と私は思う。
ヒザが痛いんだぜ2020
ゆたんぽナイトメア
While my guiter gently weeps
穴の空いた制服だけがのこった
青春
ぼくの血は呪われている


ビスコとわたし

完全な自宅勤務になって4週間。毎日家にいることがこんなにもつらいものだとは思わなかった。自宅勤務になればいくらでもサボってYouTubeが見られるな、と思っていたが、仕事をサボって見るYouTubeはさほどエキサイティングではないことを知った。学校をズル休みしたときに見たガンコちゃんもそんなに楽しくなかったのを思い出した。根が小心者なのかもしれない。

こうして前回の投稿からずいぶん空いたのも、まさに私の小心さから出た行動だといえる。いくらなんでもビスコの記事が受けすぎた。投稿日からおよそ40日間スキが1つのままだったページが、きっかけひとつでインターネットを駆け巡った。もうここはビスコの記事のアカウントになってしまって、なにを投稿するにもビスコの記事のアカウントだという前提からになる。そうかんがえると身動きがとれなくなる。たのしさよりこわさが勝つ。俺を見るな。

ほそぼそと書いていこうと思います。俺はもっと、ちんちんとか言いたいんだ。


リンゴ

いまのリンゴは本当においしい。文字通り古今東西でリンゴは食べられているが、こんなにジューシーであまいリンゴがスーパーで150円ぐらいで買える現代の日本というのは本当にむちゃくちゃだ。リンゴを食べるたびに「こんなにおいしいリンゴが手に入るなんて、自分はきっと強い権力を持つ身分なんだな」と味覚で感じる。もし私が記憶喪失で入院してもリンゴは食べさせないほうがいい。その味を知ってしまったら、病院の窓から見えるすべてが私の所有物であるとして疑わないだろう。


出会いのない旅が素晴らしくない旅だというわけではない。と私は思う。

『宇宙よりも遠い場所』を観た。本当に始まりから終わりまでのすべてがすばらしい作品だった。極限までシンプルに言うと、女子高生4人が南極を目指すお話。青春だ。

この作品を見て思い出すのは自分が学生だったときのことだ。思えば、自分も青春をしたかったのかもしれない。日本や海外をバイクでブンブン走った。知らない土地をバイクで走るのは楽しかった。

私はひとりで旅をするのが好きだった。

ゲストハウスのような旅人が集う宿にはあまり泊まらなかった。ちいさい原付のちいさいキャリアーにテントと折り畳みのマットをのせて、ちょうどいい空き地をみつけては勝手に泊まった。大学生活のうち100泊は野宿をした。さいわい怖い目には会ったことがない。

知らないコンビニの駐車場で馴染みのない地名の書かれたナンバーの車に囲まれて食べるカップ麺はなによりおいしかった。夕暮れどき、野宿をするのにちょうどよい駐車場があるつぶれたパチンコ店を見つけた時の高揚は忘れがたい。いま思い返すと駐車場の思い出ばかりが浮かぶ。

常々思うのだが、旅においての『出会い』というのは神格化されすぎているのでないか。出会いこそが旅だ、という人は多い。私もいろんな人に会ったし、いまでも連絡をする友達もできた。それは本当によかったと思っているけど。

ひとりの旅というのは『決めて、行動して、失敗する』というサイクルの連続だ。これを幾度となく繰り返すことで度胸が生まれ、行動を起こすことに抵抗がなくなる。そしてこれがひとり旅で得られるもっとも有用なものだ。と私は思う。

ひとり旅の場合はこれを何度も自分の責任で際限なく繰り返すことになるのだが、旅のはじまりや途中で連れ合いができるとその人の意見を尊重しなくてはならず、意思決定と責任の関係があいまいになる。こういった社交性も生きる上ではめちゃめちゃ大事なものだが、それは普段の生活のなかで身に付け得るものだ。せっかくひとりでいるのだから、ひとりでいることを意識して経験したほうがいい。と私は思う。

あくまで自分の意見であることをつよく強調した。
旅において出会いに重きを置く人ってたくさんいるから。


ヒザがいたいんだぜ2020

いまは在宅勤務なので、お昼休みにはお散歩をしています(一応ですが、都心ではなく田舎住まいです)。もう、いよいよか、という状況なんですが、お散歩するだけでヒザがいてえ。もう、いよいよだな。

太っているとか、学生時代に一度ケガをしているということもないんですよ。身体を動かすのは好きで、日頃から運動不足でもない。それに、まだ28歳よ?いくらなんでも早すぎる。お散歩すらできなくなるっておまえ、もう、いよいよだぞ!!

こんど整形外科に行ってみようと思っていますが、以前から走るとヒザや足裏に違和感があったんです。これも激しいランニングではなく、スロージョグで30分ぐらいのやつ。そこから様子見のつもりの散歩をしていたら、オイラのヒザがいたいでやんす。

ここ一年ぐらいで乳糖不耐症になるし、ハウスダストアレルギーが激烈に悪化するし、ヒザもかなり終わってる。内科外科両方から崩されている。オイラ、もうおしまいでやんす。ぴえん。

ここだけの話、ちんちんの機能にも影が見える。もう、いよいよだわ。


ゆたんぽナイトメア

五月あたま、日中の気温が25度を越え夏の訪れを皮膚で感じた私は、羽布団をしまってしまった。三寒四温という言葉があるように(これは冬の言葉らしい)、あたたかい日のあとは肌寒い日が来ることは私も知っている。しかし、陽気なあたたかさがそうさせたと見るべきか、うっかり羽布団との今期の契約を満了してしまった。

そういうわけでいまはタオルケットをかけて寝ている。いわずもがなだが、寒い。まだぜんぜん寒い。タオル一枚だけしかないので、気がつくと球(スフィア)の形状で寝ている。身体の熱を逃さないためだ。二次会カラオケの深夜4時頃にはだいたいみんなこの形になっていることでお馴染みのポーズだ。

寒さに負けてもういちど羽布団を押し入れから出してしまうと自らのあやまちを認める形になってしまう。それだけはしてはいけないよ、と私の中の自尊心くんが顔を出す。こいつが私のなかに住んでいなければどんなに人生はスムーズかと思う。やむをえず、今シーズンの出番は終わったはずのゆたんぽ選手の再登板となった。サプライズ指名だ。

難しいのは、寝る前は寒くないからといってゆたんぽを用意しないで寝ると気温が下がる明け方に寒い思いをする可能性がある、そして球(スフィア)に移行してしまうということだ。明け方、寒さと眠さに揺れた半覚醒状態で朦朧とするのは大変つらい。なので比較的あたたかい日にもちゃんとゆたんぽを用意している。

ただこれは今回得た知見なのだが、あたたかい夜にゆたんぽを使うと悪夢を見る。インフルエンザのときもそうだが、人はからだに強い熱を帯びると悪夢を見るのかもしれない。このまえは夢のなかでめっっちゃ高いバイオリンにうっかり傷つけてしまって、でも自分からはそのことを申告できず、いつバレてしまうのかとずーっと怯えていた。いま思い出してもいやな夢だ。その日からゆたんぽの使用はやめ、明け方には球(スフィア)に移行して寝ている。


While my guiter gently weeps

はずかしながらギターをはじめました。ただ!これだけは信じてほしいんですけど、年初からはじめてました。かかる状況で外出自粛になったから家でなにか生産的なことをしよう、というモチベーションでギターをはじめたのではないんです。それだけは、どうかそれだけは信じてください。おねがい!!

ギターを練習するにあたっての先生みたいな人がいないので、わからない部分はすべてYouTubeで検索しています。ひとつ、ギターを練習しはじめた初日からの疑問なんですけど、ギターってピアノとかと違って主旋律を弾かないから、自分の弾いてるコードが合ってるのかわからなくないですか?

たとえば、ピアノで『エリーゼのために』を弾くときにはYouTubeに上がってる『エリーゼのために』と同じ音が自分の弾いてるピアノから出ますよね。ギターの場合、たとえばスピッツの『チェリー』を弾こうとしても、スピッツはバンドだからギターのほかにボーカルベースドラムがいるんですよ。だからギターがどんな音を出しているのか、俺にはさっぱりわからない。さらにストローク(弾きかた)の違いで出てる音もぜんぜん違うように感じるし、もうお手上げ。自分のギターの音と比べても、合ってる、のか?みたいになる。ひとり、部屋でギターに語りかける。おい、この音で合ってんのか? あれ、こう見ると俺、かっこいいかもな。

たしかに『チェリー』みたいなギター練習の定番みたいな曲であればギターオンリーの解説動画みたいのはいくらでもあるんですけど、本当に限られた曲しかそういう類いのものはないんですよ。俺が中島みゆきの名曲『ローリング』を弾きたければ、神経研ぎ澄ましてその曲のギター部分だけを自分のなかでトリミングするしかないんですか?そしてコード表を見て、自分の出してる音が合っていると信じるしかないんですか?ギターを弾くことの本質って『信じる』ことなんですか?宗教?


穴の空いた制服だけがのこった

自分の育った家庭のあたりまえが一般的な家庭のあたりまえではないことにゆっくりと気がついていくように、 大人になったいま、私は人より音楽を聴くのに興味がないのかもしれないとゆっくりと気がつきはじめた(自分で演奏してみるのは楽しい。ギターの音を聞くことはそんなに楽しいと思わないが、ギターを弾いて音が出るのはとてもおもしろい)。

べつに自分がすこし変わっている、みたいなことを言いたいのではない。まったく音楽を聴かないわけではないし、好きな歌手もいる。人よりすこし音楽に興味がないというのは、私が人よりすこしリンゴが好きだ、ということと同じぐらいの意味しかない。

ただ、音楽が好きな人間は多い。特に学生というのはとにかく音楽の話が好きだ。新譜がどうとか、あたらしいiPodがどうとか、学校ズル休みしてライブに行くとか、そういう話題でいつも盛り上がっていた。私はみんなと休み時間にリンゴの話で盛り上がったことはない(あんなにおいしいのにもかかわらず)。私はいつも聞き役だった。

高校の頃、制服の袖に穴を開けてイヤホンを通すのが流行った。ブルートゥースイヤホンが主流となったいまでは笑い話だが、それは制服の内側にコードを通すことで机に肘をついているフリで耳にイヤホンを当て、授業中に音楽を聴くことができるウラ技だった。私もウラ技は大好きだったのでウキウキで袖に穴を開けてイヤホンを通したが、そこでやっと、私には授業中に聴きたい曲が特にないことに気がついた。あのときのみんなは、何を聴いていたんだろうな。


青春

青春のこと『青い春』って言うの、もうやめよう!
みんなでやめよう。好きなアーティストが使っていたら、キミが注意しよう。それがファンの役目だ。


ぼくの血は呪われている

もともと引きこもりだった友達に結婚について尋ねたとき、彼はこう答えた。ぼくの血は呪われているから、結婚はできない。

彼は大学を中退してから数年引きこもっていたそうだ。出会ったとき私は20歳で、彼は22歳だった。ふたりともバイクで日本を回っている最中だった。不思議と、日本を回っているひとには元引きこもりとか、元不登校の人が多い。「どうして出てこれたの?」と聞くとだいたいみんな「外に出たくなった」という回答をする。たしかに、外には出たいが知り合いには会いたくない、ということになったらずっと遠くまで行くしかないのかもしれない。それは至極合理的なものの考え方で、なにも彼らが世間知らずで極端な思考しかできない人間だというわけではないのだ。

私と彼は馬が合い、出会ってから何年も経ったいまでもたまに連絡をとる。若くてセンシティブだった彼も、いまでは彼の実家の近くで人並みに働いている。

彼が自分の血が呪われていると強く信じるのは、彼だけでなく彼の姉も引きこもりだったからだ。自分と姉が引きこもりになったのは家庭環境が強く影響しており、その『家庭』はもう染み付いてぬぐうことができない。だから結婚して子供をもうけても、自分と同じような道を辿らせることになる。自分の家庭の血を受け継ぐことになるからだ、ということだ。

家庭というのはおそろしい。家庭にはそれぞれ独自の社会があり、そこを離れたときにはじめてその異常性がわかる。問題なのは、そこを離れることができる年齢になっているころにはすでにその社会性が身体の一部になっていることだ。

すこしカッコつけた表現だなとは感じるが、その社会性こそが彼の言う呪いだ。当然、この世に呪いなんてものはないのだが、本人がそうだと思い込んでる以上、本人にとってそれは真実なのだ。よしもとばななの『とかげ』にそう書いてあった。その通りだと思う。

呪い。いかようにも言い換えができるものだけど、きっとどの家族にもあるんだろうな。

私の家にもある。
みんながんばろうな。


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