もう、嘘はつかないで 第5話

翌日、出社をすると米田のデスクが空席になっている。
河原崎が失踪してから臨時秘書をしている男性社員が、
「社長は頭痛がするということで今日はお休みです」と言った。
退勤後、米田に電話をすると覇気のない声が返ってきた。
「朝から頭が痛くて鎮痛剤を飲んでも効かないのよ」
「氷を買って行きましょうか。それと冷たいお水やジュースも」
「ありがとう。誰も連絡くれないの。心配して電話してくれたのは春香だけよ。鍵を開けておくから勝手に入ってきて」
私は、コンビニで氷と氷結ジュースを数本買って米田のマンションへ向かった。
「社長、春香です。入りますよ」
私はビニール袋の氷を厚いタオルに巻いてベッドの上で横になっている米田の枕に重ねた。
「冷たくて気持ちいい」
「社長、色々たいへんですよね」
「私の人生ってどうして次から次と嫌なことが起きるのかしら。ヒロトがいなくなってから何もかも上手くいかなくなったわ」
米田の口から初めてヒロトの名前が出た。
「ヒロトさんは、どうしていなくなったのですか?」
「ある女のせいよ。ヒロトが失踪したのもその女が原因なのよ」
「ある女って誰ですか?」
「キャンプに一緒に行った女よ。ヒロトは私に隠れてその女と付き合っていたのよ。私に従順だったヒロトがその女によって反抗的になっていったの。怖い程に変わってしまった」
私の心は湖畔の湖のように静かだった。山の湖畔の湖のように。深い静けさは時に噴火していく火山よりも怖いものなのだ。嵐の前の静けさよりも怖いものなのだ。
「社長この歌を聞いてくれますか?」
私は携帯のYouTube動画を開いた。画面からは緑豊かな風景と共に歌が流れてきた。しばらく耳を傾けて聴いていた米田が言った。
「素敵な歌ね。それに歌声も素敵だわ」
「素敵な歌?忘れたのですか?この声をもう忘れたのですか?」
米田は怪訝な表情をして私を見た。私の唇は震えていた。
「歌を歌っているのは、あなたの探しているヒロトですよ」
「まさか」
「そして、目の前にいるのがキャンプに一緒に行った女、あなたが私立探偵を使って身辺調査をした女ですよ」
私はリビングの引出しから手紙を取り出すと挑戦状のように米田の前へ差し出した。
「ヒロトが何故突然いなくなった原因は、あなたのいびつで異常な関係を清算したかったからだった」
「その手紙は・・・読んだの?」
「ええ、あなたとの関係にヒロトは永年苦しんでいた」
「違うわ。ヒロトと私の関係はもっと」
「やめて!あなたの口からヒロトの名前を聞きたくない」
突然米田が頭を押さえた。
「痛い!ううう」
ベッドの中で海老のように体を巻き付けている。
「苦しい・・・救急車を呼んで・・・」体を左右に揺らしながら頭を抱えている。私は物体を見るように見下ろしていた。この人さえいなかったら、
私の生きる場所は存在していたのだ。ヒロトと二人の明るい未来が待っていたのだ。自分のほんとの居場所を見つけたのに。信じられる場所を見つけたのに。拠り所を見つけたのに、あなたがすべてを壊した。
米田の独りよがりの、思い込みの、偏狭的な束縛と猜疑心と独占欲で、ヒロトの人生は壊されていったのだ。消えるのはヒロトではなく、あなたの方だった。米田はすがるような目つきで手を差し伸べてきた。
「苦しい・・・助けて」
私は後ずさりをした。エレベーターの防犯に私の姿は映っているだろうか。様々な感情が考察する。人は時に悪魔にもなる。
いやなれるのだ。人は時に善にも悪にもなる。いやなれるのだ。
ある者の前で良い人はある者の前では偽善者にもなる。
ある人と関係は楽しい関係でありながらある者にとっては付き合いづらい
関係になる。良い人だけの人間など存在しない。
悪人といわれる人にも動物を慈しむ心があるように。
非情と言われる人にも愛する者を守る正義があるように。
万華鏡のように様々な色を放ちながら生きているのが人間なのだ。
今日白色のオセロが明日すべて黒色にひっくり返える事態も起こるのだ。
私は米田の苦しむもがく姿を冷めた感情で見ながら、玄関へ歩いて行った。
「ううう・・た・す・け・て」
ドアノブに手を置く。その時だった。頭上からはっきりと声が聞こえてきた。
・・・春香だめだ。僕達の為にしてはいけないよ・・・
私は頭上に向かって叫んだ。
「何故?何故止めるの!何故止めるのよお」
・・・僕達の未来のためにそれをしてはいけないんだ・・・
私はその場で号泣した。そして泣きじゃくりながら、携帯電話を手に取った。
「急病です。緊急搬送をお願いします」
終焉。ひとつのドラマの幕が降りていくのをひしひしと感じていた。
 米田が意識が戻ったのは一週間後だった。
病名は、くも膜下出血。
数時間遅れていたら命はあぶなかっただろうと医師は言った。
米田の親族に連絡をして内容を伝えると翌日弟だけが病院に来た。姉の米田とは対照的で無口で静かなタイプだ。命に関わる病状を伝えても訪れたのは弟だけであることが米田の家族関係を物語っている。
ベッドで横たわる米田を私はしみじみと眺めた。
米田は誰かに愛されたかった。愛を求めて渇望していた。
彼女の愛情の飢えがヒロトへの偏狭的な愛となって現れたのだろうか
いや、彼女だけではない、人は皆誰かに愛を求めて救いを求めてさまざまな何かを求めてさまよい続ける生きものなのだろう。
 
色彩が鮮やかな季節が訪れようとしていた。
私はバスに乗りキャンプ場へと向かっていた。
キャンプ場は家族連れや、女子、カップル、学生などがそれぞれ楽しんでいた。それらをゆっくりと眺めながら歩いた。
前方から男性の声が聞こえてきた。
「アルミホイルを巻いて火の中へ入れて。アボカドやトマト、チキンや、茄子好きな食材をアルミホイルに巻いて火の中に投げ込むだがけでいいんだ」
私は声のする後姿の数歩手前で立ち止まった。
「先に入れたのがそろそろ食べごろだと思うよ」
ひとつのアルミホイルを開いた茄子バターと醤油を匂いが広がった。
「上手い!」
「だろう!この食べ方が一番美味しいんだよ」
後姿の男は立ち上がり片手をあげて反対方向へ歩き出した。
「今の男性はお知り合い?」
私は遠ざかる男性の後姿を見ながら訪ねた。
「いえ、時々キャンプに来ると会います。この山奥でひとりで暮らしているそうです」
私は男と同じ方向に歩き出した。
男は山の中へと消えて行った。男が歩いた先に照らす光が見えた。
白く明るい光は私を導くように優しく光っていた。
私はただ歩いていく。
光り輝く道はまるで私を誘うように徐々に輝きが強くなっていく。
私は歩いて行く。
ただ光ある場所へ導かれるように歩いて行く
もはや私の意志で歩いているのではない。
何かに誰かに導かれているように歩いていく。
木々が乱立している場所へ視線を移す。
その場所だけ白い光が輝いていた。風が私の身体を包むように舞った。
音を奏でるように舞った。
空を見上げると夕闇の空に二羽の鳥が並ぶように飛んでいた。時に離れて、そして再び戻りながら。何度も、何度も円を描きながら飛んでいた。
  

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