【朗読Bar原稿】ステイゴールド~遥かなる黄金旅程~

朗読Bar出演時原稿
公演日:2023年6月14日
当時読んだ内容をほぼそのまま掲載しております。


ステイゴールド 遥かなる黄金旅程
 
 みなさんが「競走馬」と聞いて想像する馬ってなんですか?競馬を知らない人でも聞いたことのある名前はいくつかあると思います。彼らはその強さを見せつけ、様々な記録を残し、そして何より、ファンに愛されてきたからこそ、今もこうして語られるアスリートなのです。
そんな数ある競走馬の中から今回みなさんにお話しするのは、何度も何度もレースに挑み、何度も何度も強敵に敗れ、長い長い現役生活の最後に金色の栄光を掴みとった、みんなが愛してやまない、馬のお話です。
 
1994年3月、北海道のとある牧場で彼は生まれた。生後間もない第一印象は「きりっとした小柄な馬で、黒くて品があってバランスがいい」。手のかからない大人しい馬だったそうで、幼少期は特に目立った印象はなかった。
しかし、彼は大きくなるに連れて、本性を現しだしたのです。
競走馬はレースをするために調教をします。彼もまもなく調教を始めるのですが、徐々に気性の激しさが鮮明になってきます。調教中に急に立ち上がることは日常茶飯事。他の馬に乗りかかろうとするわ、嚙みつきにいこうとするわ。 人に対しても噛みつきにいき、油断していると蹴りが飛んでくるし、馬小屋の前を通っただけで突進して威嚇してくる。走行中はやたらと左に寄っていき、コースをそれて走っていくし、終いには乗っている人間を振り落とそうとしてくる。世話をする人は「とにかく自分が一番エライと思っている。自分の中のマイルールを絶対に曲げようとしない」とあきれる一方、「猛獣ではない」と語りました。彼自身の中にはしっかりとしたルールがあって、ただ意味もなく暴れることはなかった。その意味では「賢い馬」であったと言えるでしょう。・・・ほんとかなぁ。
それでも根気強く調教は続き、彼は順調に育っていく。そして2歳となった彼は中央競馬のレースにデビューします。競走馬として登録された名前は、スティービーワンダーの曲名からとりました。「黄金のような美しい輝きのままで」という思いを込め、「ステイゴールド」と。
 
さて、ここから競馬のお話しになるので、少しだけレースの仕組みをお話しましょう。年間3300以上行われるレースは開催される場所、距離、年齢、性別など条件が様々で、さらに各レースには格付けがあります。まず低いクラスのレースに出場し、順位によって賞金を獲得します。そして賞金を重ねるとオープンクラスに入ることができ、G3、G2、G1の順にグレードの高い重賞レースに参加できるようになります。その中でもG1に格付けされるレースはたったの26レース。年間約7000頭も生まれるサラブレッドたちが、自分たちの条件にあうG1に出走すること、ましてやそこで勝つことは、本当に難しいことで、とても名誉なことなのです。
ステイゴールドも、そのG1のタイトルを取るため、自分の気の向くままに、練習に励んでいました。
 
1996年12月。ステイゴールドは阪神競馬場で開催された新馬戦でデビューします。これから彼の華々しい競走馬生活が始まる・・・と行きたいものですが、そんなに甘い世界ではありません。デビュー戦は3着。2戦目は16着に終わり、そのレースで足に炎症が出てしまい、しばらくレースに出ることができませんでした。体調がよくなり挑んだ翌年の3戦目では、右回りのコースなのにコーナーで曲がろうとせず、そのまま左に旋回して暴れだし、乗っていた騎手を振り落として競争中止。うーん癖がすごい。
とにかく、左によれる癖を矯正してレースに復帰。4戦目、5戦目も2着として、6戦目でようやく初勝利となります。このレースが行われたのが1997年5月。彼は3歳になり、実にデビューしてから半年が経過していました。同期たちはすでにG1で戦っているなか、ようやく掴んだ初勝利。ステイゴールドはその勢いのまま次のレースも勝利。一度負けを挟んで、札幌で行われた「阿寒湖特別」では年上の馬たちを相手に勝利。秋の大きなレースに向けて弾みをつけました。この調子でいけば、もっと上の条件でも勝ちを重ねることができ、G1レースにも出走できて、勝てることができるかもしれない。・・・そう、この時点で誰も予想はしていなかったでしょう。ここから、2年以上、彼は勝利から遠ざかることになるなんて。
 
秋の初戦は4着と敗れますが、次に挑むのは3歳限定G1菊花賞。世代限定戦とはいえ、初めてのG1レース。格上挑戦でしっかり結果を出したい・・・ところでしたが、いいところなく8着。夏から4連勝したマチカネフクキタルにしっかり敗れた。
その後、年末のレースに出走するも2着。レース中に他の馬に噛みつきに行こうとするなど、まったく競馬に集中できていないステイゴールドだった。
 
年が明けた1998年。4歳馬となった彼はこの年最初のレースで2着。次のレースでも2着。その次のG3でも2着と、前の年から4戦連続で2着。なんだかいいレースはするんだけど、どうしても勝ちきれない。しかし、しっかり上位には入ってくるので賞金は稼ぐ。気づけば格上のG2やG1に出ることができるオープンクラスになっていた。ここから先、ステイゴールドはG2とG1のレースに挑戦し続けます。しかし、彼の前には数々の名馬たちが立ちふさがる。メジロブライト、サイレンススズカ、エルコンドルパサー、グラスワンダー・・・強敵たちを前に、ステイゴールドは果敢に立ち向かった。
5月、この年最初に挑んだG1は春の天皇賞。最後の直線で先に抜け出したメジロブライトをとらえることが出来ず、2着。
7月のG1宝塚記念では、異次元のスピードで逃げきるサイレンススズカに迫るも2着。
11月には秋の天皇賞に挑んだが、絶対的な存在であったサイレンススズカがレース中に故障。あまりのショックに静まり返る競馬場で、ステイゴールドはひっそりと2着。また2着。いい加減にして。
GIレースを3戦連続2着である。特に天皇賞(秋)は、言い方は悪いがGIを勝つまたとないチャンスだった。これをみすみす逃したことで、競馬ファンのステイゴールドに対する評価はほぼ決まってしまう。惜しいところまで行くが詰めが甘い善戦マン。「名前はゴールドなのにシルバーコレクター」、「ゴールドの前でステイ」などと揶揄され、勝った主なレース名が「阿寒湖特別」だったことから、「アカン子」なんて不名誉なあだ名もついていた。しかしながら、小柄な馬体でも力強いレースをすることや、レースでかなりの割合で馬券に絡んでくるから、幅広い層に人気を博し始めた。
その後はG1ジャパンカップで10着とするも、年末のG1有馬記念では3着。11戦走って未勝利に終わるものの、5着まで名前が表記される掲示板から外れたのは、たったの1回。力はあることは証明され、今後の活躍に、色んな意味で期待するファンも多かった。
 
明けて99年。ステイゴールド5歳のシーズン。G2を7着、3着として、G1春の天皇賞はスペシャルウィークに離され5着。少しずつ着順が落ちてきていると感じながら、その後のG22戦とG1で連続3着。今度はシルバーからブロンズコレクターに変わろうとしていた。
前半の怒涛の3着とは打って変わり、秋からの5レースで5着までに名前が上がったのは1回のみ。秋の天皇賞にて、それまでのレースタイムを上回るレコードタイムで走るも、それよりも0.1秒早く駆け抜けたスペシャルウィークに敗れる。それでも2年連続2着は立派な結果でありました
 
なかなか勝てないのは能力が足りないからなのか。いやいや、そんなことは決してない。確かにステイゴールドは小さな馬だった。サラブレッドの平均体重が450から500キロであるのに対して、彼は一番重たかった時でも436キロしかなかった。しかし身体能力はずば抜けたものがあった。後ろ足だけで立つバランス感覚と、重い人間を乗せてもしっかり走るパワーがあり、瞬発力は一線級。そして何より頑丈だった。デビュー直後以外は大きな病気も怪我もなく、毎年何レースも走り続けるのだ。そして荒い気性と引き換えに闘争心は必要以上に持っており、弱いところを見せるのをとにかく嫌う性格だった。
こんなにアスリートとして恵まれているのに、なぜ勝てないのか。レースの展開、当日の天候など、いろいろなめぐりあわせにもよりますが、・・・大きな要因の一つに、戦ってきた相手が、それ以上に化け物ばかりだったから、という理由もあるでしょう。
 
99年も未勝利のまま終わったあと、世紀末に入った2000年。ステイゴールドはすでに6歳、人間でいうとアラサーにあたる世代に突入していた。同期はおろか下の世代も徐々に現役を引退していく中、彼が衰えを見せる様子はとりあえずなかった。この年もG2レースを2着、3着、2着、G1天皇賞(春)4着と惜敗を繰り返し、「もうステイゴールド重賞を勝てないかもしれない」・・・そんな声もささやかれだした中、ついにその日はやってきた。
5月、GII目黒記念。
ステイゴールドは重賞未勝利なのにハンデで一番重い重りを背負いながら一番人気。その人気に応え、ついに、ステイゴールドが重賞で先頭に立ってゴールする瞬間を迎えたのだった。
レース数にして実に29戦、時間にして約2年と8カ月ぶりの勝利で重賞初制覇。このレースまでにGIの3着以内に6回入り、既に並のGI馬より賞金を稼いでいた。その額なんと5億円以上。GⅠ有馬記念の1着賞金より多い。それにも関わらず、「善戦マン」や「アカン子」なんて言われ続けていた。だからこそか、この勝利に、会場となった東京競馬場では雨にも関わらず多くの拍手と歓声が巻き起こり、レースを中継していた別の競馬場でも拍手を送る者が絶えなかったといいます。
ようやく掴んだ重賞の勝利。この勢いでG1でも勝利を・・・といいたかったが、この年は2000年。ステイゴールドが挑むG1レースで立ちふさがったのは、テイエムオペラオーだった。この年に出走したレースで無傷の8勝、うちG15勝。化け物中の化け物相手に、勝つことはおろか、3着以内に入ることもできなかった。
 
世紀が変わった2001年。彼ももう7歳。活躍できない競争馬は1年足らずで、活躍しても5、6歳には引退するような世界で、彼はまだ現役を続けていた。いい加減衰えも隠せない年齢だが、むしろこれまで以上の仕上がりを見せていた。
年明け早々のGⅡであっさり勝利して重賞2勝目を挙げる。次のレースへの期待が高まる中、彼が選んだのは海外だった。
中東の地、ドバイ。ここで行われるレースに出走する馬の調教相手として選ばれたステイゴールドは、「それなら一緒に」とドバイシーマクラシックというレースに出ることになった。
オイルマネーあふれるドバイで行われるレースは賞金が大きく、世界中から強豪たちが集まってくる。彼の出走するレースにも、世界のG1馬が多く出走していた。
そんな強敵たちを前にステイゴールドは・・・がりがりに痩せこけていた。輸送による疲労ですっかり食欲が落ちてしまい、しっかり餌を食べなかったことが原因だった。しかも、弱みを見せない性格ゆえに、食べきれなかった餌を寝床に隠したり、別の馬に分けたりして食べたふりをしていたせいで、周りが気づくのが遅れたらしい。プライドが高いのかアホなのか。とにかく、まともなレースなんて望めないので「どうにか無事に帰ってきてほしい」という願いだけでレースが始まった。
しかし、ここで彼の闘争心が発揮される。最後の直線で前を走る馬が壁になって抜け出せないところを、わずかに空いた隙間を突いて抜け出すと急加速。先頭を走る馬を猛追し、並びかけたところでゴールイン。写真判定の結果、わずか20センチの鼻差で差し切って大金星を得た。日本産の日本の調教馬が海外で勝利することは、当時で史上3頭目の快挙。ステイゴールドは世界にその名をとどろかすこととなった。
これで念願のG1初勝利・・・と言いたいところだったのですが。当時、ドバイシーマクラシックはG2。しかも、その翌年にG1に格上げされたのだった。こんなところでもついてない。もはや名人芸である。
 
その後、ステイゴールドを管理しているクラブは今年を最後に、彼を引退させることを決めた。これまでの活躍が評価され、その強さを後世に残すための種馬として選ばれたのだ。彼に残されたレースはあと数回。ファンや関係者がとにかく無事に走り終えることを願いながらも、まだ達成できていない、G1での勝利をなんとか掴んでほしいと願った。
 
しかし、そう簡単には勝てないから、誰もが目指す栄光なのです。
 
6月。国内復帰戦に選んだG1宝塚記念は4着。昨年テイエムオペラオーに対して4回も2着に敗れ続けていたメイショウドトウがついに逆転して栄光を掴んだ。
10月。G2京都大賞典でついにあのテイエムオペラオーより前に出て先頭でゴール・・・しかし、ゴール直前で例の左に寄れる癖が出てしまい、ナリタトップロードの邪魔をしたため失格となった。
同じく10月。G1秋の天皇賞でも、また斜めに走りスピードが出ず、アグネスデジタルの7着と敗戦。
11月。左に寄れる癖をしっかり治して挑んだG1ジャパンカップは4着。3歳のダービー馬ジャングルポケットがテイエムオペラオーを含む上の世代に勝利し、世代交代の大波が起こっていた。しかしステイゴールドはさらに輝きを増したように全盛期。真っ直ぐ走ることができ、乗っていた騎手は「これなら、勝てるよ」という言葉を残していた。
 
長い長い現役生活。2歳の12月にデビューしてからもう5年。走ったレースの数は49。大きな怪我や病気もせず、長い年月をかけた旅も、ついに終わりを迎えました。
 
12月。引退レースとして選ばれたのは、年末最後のグランプリG1有馬記念・・・ではなかった。50戦目のラストランに挑むため、彼は、香港にいた。
香港、沙田(シャティン)競馬場で行われるG1香港ヴァーズ。国際G1なだけあって、やはり世界各国から様々な強豪たちが集まってきていた。そんな中でステイゴールドは、ドバイでの勝利が支持され、なんと1番人気になっていた。様々な期待がかかった彼の背中には、中国語表記で書かれたゼッケンが乗っていた。漢字で書かれた馬名は「黄金旅程」。まるでこれまでの長い旅の終着点を表しているかのような馬名に、人々は心を躍らせた。黄金をかけた、レースが始まる。
 
レースは淡々と進んだが、第三コーナーで、イタリアのG1馬エクラールがロングスパートをかけ独走体制に入ろうとする中、ステイゴールドは中団にとどまり大きなリードを許したまま最後の直線に入った。直線では素早く馬郡を抜け2番手に上がるが、残り200メートル時点で先頭を行くエクラールとは約5馬身、12メートルほどの差があり、さらにステイゴールドは今までとは逆の、右に寄れて走り始めた。度重なる左に寄れる癖を矯正した結果、今度は右に寄れるようになっていた。いい加減にしろ。そんなツッコミがあったかどうかはわからないが、騎手がとっさに左の手綱を締め直すとステイゴールドは体制を立て直し、先頭を猛追。凄まじい勢いで一完歩ごとにエクラールに迫って行く。それでも残り100mの地点ではまだ3馬身の差があったが、力強く、伸びやかに、確実に近づいてく。その差が2馬身、1馬身と迫る。何度も何度も挑み、何度も何度も跳ね返された。それでも、あくなき闘争心が、だれにも負けたくない気持ちが、彼の旅路を支え続けた。その先にある、黄金の栄誉を掴むために。
その姿に、誰もが目を奪われ、気づけば応援していた。愛していた。それは、本来、公平な立場で全体を伝えるレースの実況だってただのファンにしてしまうほどに。当時のレース実況はこうだ。

「さあ一気にステイゴールドが2番手まで上がってきた!
 残り300m、しかし前まではまだ5馬身ある!
 先頭はエクラール,ドバイ!200を切った!
 さあステイ頑張れ! ステイゴールド追ってくる! ステイゴールド追ってくる!
 単独2番手から! 前まではまだ3馬身ある!
 ステイゴールド! ステイゴールド追ってくる! ステイゴールド! 差し切れ!
 ステイゴールド! ステイゴールド! エクラール!
 ステイゴールド! ステイゴールド! ステイゴールド!
 ステイゴールドォォォ! 差し切ったァァァ! 
 ラストランを見事に飾ったステイゴールドォ! 最終戦でG1獲ったかっ!?」

・・・もはや実況ではなく、応援だ。特に残り200mを切ってからはただひたすらにステイゴールドの名を連呼するだけであり、その時いかにこの馬に熱が入っていたかが窺える。
ステイゴールドは最後の直線を驚異的なスピードで追い上げ、ゴール直前にぎりぎりアタマひとつ分前に出て勝利を収めた。長い旅路の最後に、G1勝利という金色の栄光を掴んだ。しかもこの勝利は『日本で生まれ、国内で調教された馬による史上初の海外G1制覇』という日本競馬界全体の悲願でもあった。国際G1馬となったことで、「ステイゴールド」という名前は他の国でもつけることができない、ステイゴールドだけの名前になったのだ。
 
5年間に渡った競走生活の末、50戦の節目、引退レースでのG1制覇は、「まさに絵に描いたような大団円」そして翌2002年1月に京都競馬場で引退式が執り行われた。元々彼の引退式は行われる予定はなかったが、ファンからの強い要望がきっかけで実施された。馬名の由来であるスティービー・ワンダーの「Stay Gold」をバックに、彼の競争生活は終わりを迎えた。
 
引退後、彼は多くの子供たちをこの世に送ることになる。しかも、自分はなかなか勝てなかったG1を制覇する馬がいくつも生まれた。彼の生まれ持った身体能力と闘争心が、しっかり子供たちに受け継がれていたのだ。・・・もちろん、気性の粗さや変な癖も。そんな名馬たちがどのように活躍したかは、また別のお話。
 
最後に、彼の人気があらわされたものをひとつ。中央競馬を運営しているJRAが作成した「ヒーロー列伝」というポスターがある。通常G1を勝利する馬たちが選ばれるのだが、彼が抜擢された当時はまだ目黒記念しか重賞勝利がなかった。それでも選ばれたのは、ひとえに彼の戦う姿がファンの心を掴んでいたからであろう。ポスターにはステイゴールドの写真に、このような文章が添えられている。

「愛さずにいられない。」
時代に新たな最強馬が生まれるたび、いつも果敢に挑んでいくあなたの姿がある。
黒鹿毛(くろかげ)に輝く小さな身体を力いっぱい弾ませて、最後の直線にすべての勝負を懸けて、
先頭でゴールを駆け抜ける一頭がどの馬だったとしても、あなたのその姿にたくさんの声援が送られるだろう。
ステイゴールド、もう誰もがあなたのことを、
愛さずにいられない。
 
おわり

参考レース
2001年 香港ヴァーズ


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