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海洋散骨

8/29(土)、父の遺骨を散骨してきました。

父が残したメッセージのひとつに「骨は海に撒いてほしい。できれば太平洋に」というものがありました。外洋に出る船に乗って人生の大半を過ごしていた父の最後の願いです。


当日は兄と僕、孫3人で船に乗る予定だったのですが、船着き場で船を目の前にし、船長さんが「もう人数は関係ないから乗っていきなよ!」と言い、結果的に元々(船酔いを危惧して)乗る予定のなかった母妻たちも乗って、家族全員での見送りとなりました。

天気は万全に良く、海も荒れておらず、絶好の散骨日和。港を出て2、30分くらい船は走り(まるでアトラクションのように、ぶわんぶわんと船は滑走しました)、南房総最南端の灯台がある沖あたりの散骨場所へ。


まずは日本酒を海に撒き、そのあと粉にした遺骨を海に撒きます。家族が交代で骨を撒いていきます。合わせて花を撒き、なんだかそれは映画のワンシーンのようでした。

父が望んだこと、自らを海に撒くこと。それが叶った瞬間でした。

母が骨を撒き、兄家族、僕の家族がそれぞれ撒き、皆はそれぞれ何を思ったでしょうか。粉になった父の遺骨を撒くという行為は、いったいどういうものだったのでしょう。


父と過ごしてきたとても長い時間がまるで一瞬のようで、さらさらと粉が海に落ちていく時間も一瞬のようで、なんかぜんぶ一瞬だ。海も父もそれをわかっていて、一瞬なんだよと教えてくれるような時間。


最後は骨を撒いた場所を船がぐるっと三回まわり、離れていきました。その場所から離れていく瞬間が、一番胸が熱くなったのを覚えています。本当に離れてしまう、と。けど思えば、父は海になったんだから、別に離れたわけじゃないよ、と。

その後、港まで戻る時間は家族皆、口数が少なかったような気がします。加えて行きよりも帰りの方が短く感じられたような気がします。


またひとつの区切りを経て、次に向かいます。全部ひとつひとつ。一瞬に思えるようでありながら遅々として。やれることは限られている。やりたいと思っていても、すぐには進まない。できる限りの速度で少しずつ。


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「骨」は自然界に分解されないので、散骨しても水に溶けるとか土壌で分解されることはないそうです。本来は自然から発生しているはずなのに、自然に帰ることは無いというのは不思議なことに思います。だからこそ、古い骨が「化石」として発掘される、ということなんですが。

と思うと、父はずっと海にいて、時に砂浜にいたり、あるいはまた海に出てどこか外国に行ったり。生きてるときと変わらない。気ままな分だけ良いかもしれない。

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