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手続き/仕事/拠り所

父の死亡届を出しに行った市役所の中庭から空を見上げた写真。


<手続き>

死亡届を出すという体験が初めてだったので、覚束ないままに書いた書類は数か所間違いがあり、係の人に指摘されて修正した。提出してから約1時間くらいの待ち時間があって、それはおそらく戸籍の変更などがあるからと予想したのだけど、一緒に行った妻と「きっとすごい偉い人のハンコが必要で、その分の時間がかかってるんだよね」と言ったりしていた。

その先のことに思いを巡らせていたが、あまり先のことはわからなかった。当座の手続きを済ませながら、これからきっとやるであろう手続きに思いをめぐらし、終わらせてもまた姿を現す手続きがきっとあるはずで、しばらくは手続きに追われるだろうと予想がされた。3週間が過ぎた今なお、必要な手続きは残っている。その終わりは見えない。


<仕事>

在宅での仕事に追われて今日が過ぎた。父のことはほとんど思い出さずに過ぎた。実家にいる母のこともふと思い出したりするが、かといって何ができるわけでもなく、目の前の仕事に従事した。物理的に遠くにいるということと、心理的に徐々に離れつつあること。

離れていくのは当然で、父も母も自分自身の人生を生き、私自身も私の人生を生きる。その束の間に思い出し、遠くに離れていながらふと帰る。

今もまだ骨は実家の祭壇にあるけれど、何かの折に父に聴く。父の生前にはあまりしなかったことだ。「どうする?」と問うてみる。答えは無いが、「父ならどう判断するだろう」と思う。とはいえ結果、自分で判断する。そうやって父が内在化して、私はこれからのことは自分で決めていく。

そうやって問うことができるだけでも幸運だ。問いを照らすことは自分としては父に聴くという行為を内省的にしているが、そこをくぐって結論は私に委ねられている。

一般的に人は、なにを頼りに物事を決めるのだろう。その決める根拠とはなんだろう。拠り所はきっと自分だろうが、その自分の拠り所とは何だろう。

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