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アジを捌く/自燈明

<アジを捌く>

帰省するたびにリクエストしていた料理は刺身で、特にアジは地元の名産で、捌いてもらった刺身はいつも絶品でした。いつからか父が捌く様子を横で見習いながら少しずつ自分でも捌くようになり、ここ最近繰り返し手掛けたことでようやく身に付いてきた気がします(もちろん、まだまだですが)。

父の横に居て捌きを見ているだけで、「やってみろ」と言われても、その捌きはあくまで習ったものの域を超えません。ある時自分で最初から最後までやってみて、教えてもらった行為をなぞりながらアジの身体の様子や勝手を体感しながらひとつひとつ学んでいく。あくまで父はそのコツ、おおまかな手ほどきだけでした。

あとは自分で実践しながら身につけていく。横で見てくれた父はもういませんが、繰り返すうちに自分ひとりでアジを捌くことはできるようになった、それは父から教わった技術のひとつです。

父も捌く行為を繰り返しながら身につけていったはずで、私もそれは実践を通して身につけていく。アジを捌く父の姿を見てきたことで「アジを捌く行為」がわかり、あとは自分が実践を繰り返していくことで身体化できる。

そんな繰り返しが、父が亡くなったことで「自分でやるしかない」という状況になりました。「あとは自分でやってみろ」と言われているのかもしれません。


<自燈明>

ブッダが死ぬ間際、弟子たちから「私たちは師の死後にどのような教えに従えばよいのでしょう」という問いに、「もう私は教えることは無い、あとはお前たちが自分で先を照らしていけばよい」と教えたのが「自燈明」。そうかわかった、私は機会あるたびにアジを捌いていく、それはもう繰り返し経験を積んでいくだけ。

アジに限らず、何かの折に父に相談していた事柄も自分で決断し、それはもう沢山を教えてもらったのだから、これからは問いが生まれれば自分に問い、決断し、照らしていけばよい。迷ったらスーパーでアジを買ってきて捌けばわかる、たぶん。

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