「何をしてきたのか」と、「これから何をしないのか」、そして存在の重さ
存在の「重さ」というのは正確には質量のことで、F = maであるからして動きづらさによって規定される。
その動きづらさ、不自由さとは歴史で、今までどういうことを成してきたか、どういうものと関係してきたのかということである。
最近、世の中が清潔な方に流れていくのを感じる。
インターネットの普及は大いにそれに貢献しているだろう。何かと大いに関係するものはどんどん減っていき、多くの存在と、限りなく薄い関係を持つことを望むものが増えている。
しかしその先にあるのは、(『存在の耐えられない軽さ』において隊列から離れたサビナのように)もはや裏切ることの残っていない世界であり、アイデンティティの拡散を意味する。
だから、我々は何かを為さなければならない。そして、為したという事実に対峙しなければならない。
何かを為したと認めることは、自分の人生にカルマを堆積させるということだ。そしてそれは、今後自分は何をできないかということを規定することでもある。
明日できないことを増やすために、今日も取り返しのつかない過ちを犯す。
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