「Aだ」と言うことは、「Aだということ」でも「Aだと思っている」ということでもない

「発言する」ということがどういうことなのかがここ最近の関心ごとであったため、徒然なるままに思考を走らせてみたので、メモとして記そうと思う。


住」は大事ではないと思っていると思っていた

僕は大学生の頃、「衣食住」という言葉に違和感を覚えていた。

というのも、この中に「住」が入っているのが疑問で仕方がなかった。
今の日本で、全裸で生きている人は見たことがないし、何も食べなかったら死んでしまう。しかし、家がないひとはたくさんいるし、世界には定住する住まいを持たない民族だってたくさんいる。

これは何も必要性だけの話に限らず、嗜好的な部分についても思っていた。

服というのは他人とのコミュニケーションとのインターフェースでもあり、自分自身を構成する一部分でもあるから、お金をかけたいと思っている。食べ物も、人生における食事の回数は限られているし、何より毎日発生するイベントなので、そこのクオリティが上がることはQOLの上昇に他ならないからである。
しかしながら住まいというのは——少なくとも、色々な場所に行って仕事をすることが多かった僕にとっては——風呂に入って寝るだけの場所でしかなかったし、例えば夜景の綺麗なタワーマンションに住みたいみたいな話は、「即時的な快楽だし、何より生産性がない」と感じ、理解できずにいた。

そして実際、そのような話をする機会もそこそこあった。「家はとりあえず寝られれば十分」と言っていたし、いい家に住みたいと言っている人に会うと「はえー、わからん」とコメントしていた。

しかしそんな僕にも引っ越しのタイミングはある訳で、物件選びをしなければならなくなった。

物件選びは、予算が上への制約条件で、駅から何分以内がいいとか、築何年がいいとか、バストイレ別だとか、そういうのが下方面の条件である。

その下方面の条件を出している時、住めればいいと言っていた割には注文が多いな、と気づいた。
収納が多いとかは「住める」のうちに入るとして、部屋の内装が綺麗な方がいいなとか、駅からの道に何があるとか、オートロックだと良いとか、自分でも思ってもみなかったようなことをどんどん思いついていた。

要するに、なんだかんだ自分は「住」という部分でQOLをあげようとしていたし、他人を家に呼んだときに楽しんでもらえるかとか、家で気持ちよく仕事ができるかとか、そういうことを無意識に考えていたのである。

つまり、「『住』は大事ではない、と思っている、と思っていた」だけで、「『住』は大事である、と思っていた」のだ。

「『住』は大事ではない」と言っていたし、「『住』は大事ではないと思っていると思っていた」僕にとっては、「『住』は大事であると思っていた」という気づきはかなり衝撃的なものであった。


「Aだ」と言うことは、「Aだということ」でも「Aだと思っている」ということでもない

例えば私が、「制服は廃止されるべき」と言ったとして、まず重要なのは、それが「制服は廃止されるべき」ということではないということだ。これは、「リンゴはバラ科の植物である」というような、客観的に真偽を確定できるような命題ではない。だから、私が「制服は廃止されるべき」と言ったとして、本当に廃止されるべきなのかについては何の効力も持たない。正確に言えば、「『A』と発言すること」は、「『A』は真であるということ」ではない。

次に、「制服は廃止されるべき」と言うというのは、「『制服は廃止されるべき』と私は思っている」ということでもない。ひょっとしたらその発言は、「『制服は廃止されるべき』と私は思っている」という「意味」ではあるかもしれないが、例えそうだとしてもなお、「『制服は廃止されるべき』と私は思っている」のかどうかはわからない。これは先の例の通りである。自分では廃止論者だと思い込んでいるが、無意識的に、または客観的には推進論者であるということは十分にありうる。この例がわかりづらければ、極論「嘘をついた」時のことを考えれば良い。今私は「リンゴはメダカ科の淡水魚である」と言うことができるが、全くそうは思っていない。


発言するとはどういうことか

嘘の例は置いておくとして、「A」と発言するということがどういうことなのか振り返っておく。

まず「『A』と言うこと」は確かに「A」という意味を持たせた発言かもしれないが、だからといってAだとは限らない。

そして、「『A』と言うこと」は(嘘をついていなければ)確かに「『A』だと私は思っている」という意味を持たせた発言かもしれないが、だからといって「『A』だと私は思っている」とは限らない。

それでは、「『A』と言うこと」はどういうことなのか。

それは、「『A』と言った」という事実でしかなく、客観的に言えば、そこからそれ以上のことを読み取ろうとすればそれは間接的な憶測にしかなりえない

発言を発言のまま受け止めるというのは案外難しく、ともすれば我々は、我々が言いたいことを、他者の発言に"読み込んで"しまう。

だからこそ、自覚的に、事象からわかることと自分の中での推測とを意識的に分別しなければならないと思う。


補足

これは、記号論理学の証明図において、仮定として置かれるはずの命題が「Aは真」ではなく単に「A」と置かれていることへの違和感からスタートしている。命題というのは単に真偽が決定できるということしか決まっていないはずなのに、単に命題を記述しただけでそれが真であるという意味になるのに気づくまでに時間がかかった。

今回は、発話とその意味/主張、及び実際の真偽の関係について深く掘り下げようと思い、その過程を記した。


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