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20221024

ふわふわしている。

自家撞着という言葉に希望を抱いていた時期は、もう記録のように遠のいてしまった。過去の自己はどこかで自己と分離する。それはclear-cutではなくグラデーションであるようで、かといって郷愁するタイミングは離散的であるから、思い出は突然、思い出となる、といった具合である。

かつて私は一生懸命であった。街の中の全ての文字はフォントに見え、聞こえる全ての文章が命題に聞こえていた。世界は意味に溢れていたのである。存在の本質は対象に住んでいるわけでも認識が飼っているわけでもなく、その二つの間にひっそりと息を潜めていることに気づいて以降、世界の全てが私に語りかけてくるようになった。一挙手一投足が、無限の色からピックアップしてカラーパレットを作る作業に相当し、つまり、世界は一つであり、翻って自己の方を無限に選択していくというコペルニクス的展開に齷齪していたのであった。

これは龍のようなもので、飼い馴らすのには相当の時間を要したが、やはり世界とはambivalentなもので、この問題を解決したのもまたこの怪物であった。

無限の選択とはいえ、外部からの要請によって意味の"濃さ"というのにはムラができる。それは色相環の中でHueには優劣がなくSaturationには上下があるように。自分自身の選択のうち一部を、外部の"流れ"にアウトソーシングする。フローの中での空気抵抗で生きてゆく。そのような生き方をする期間が、また2年くらいあった。

さらにそうこうしていると、問題は身体性に行き着いた。存在は有機的なものであり、自分から動くのを止めると、表面が苔むしてくる。不可逆な蜘蛛の巣が形成されていくように、無感覚のうちに少しずつ、社会(ここでは広く、外部との関係性、くらいに思っておけばよい)に糸を絡ませてゆく。老いとは諦念のことなのだと思った。

活けた花がゆっくりとしかし着実に花びらを散らしていくように、膨大な思考と手数に支配されていた脳から、まず手数が抜け落ち、さらには思考も抜け落ちていく。死はもう始まっているのだと思った。

意味と、意味のないこと、の間に意味を感じていた自分はいつしか額縁の中にある。緩やかな揺り戻しの中で、逆張りに逆張りを重ねて裏も表も無くなってしまった。死のアウフヘーベンを重ね続ける無限地獄の中の希望は、それでもやはり、世界のカオス性にある。アプリオリに存在があると言う事実が、この航海における錨なのである。

いずれにしても、今が時化なのは間違いない。Windows2000のスクリーンセーバーのような世界で、次はどんな画面が見られるのだろう。

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