自由の定義5
昨日・今日と、代々木周辺のお店にチラシを置かせて頂けるかのお願いに回っています。
飲食や物販のお店の場合、まずはお店の雰囲気やコンセプトや客層も見たくて、毎度お茶したり食事をしているので、お腹がタプタプです。
お店によって快く承諾してくださるところから、断られるところまでありますが、こんな事でもないと、近隣のお店に外食もお茶もすることがないので、いい機会になっています。
何よりも、誰かにやらされているのではなく、自分主導でやっているので、断られてもノーストレスなのです。
さて、前置きが長くなりましたが、「自由の定義5」です。
前回、精神的な自由と不自由について書きました。
本来、自分の中に眠っている潜在的な能力が、規制や管理により閉塞感を感じている時に「不自由さ」を感じていると定義しました。
ところで、鬱や引きこもりになってしまう子のほとんどが、教育熱心過ぎる家庭から発症しているというのはご存知ですか?
自分の中に備わっている壮大な能力、もしかしたら、この世に使命を持って生まれ出たかもしれない能力を、外部からの圧力により、何年も何年も、強く閉じ込められ続けたとしたら、どうなるでしょう?
その環境で生き延びて行くには、心の感度を下げるしかないと思いませんか?
自分の感情が、現実とのギャップに苦しさを引き起こしてしまうからです。
それでも、心の感度を下げることができない感性の研ぎ澄まされた子は、自分の心を守るために外界をブロックするしかないのではないでしょうか。
私も会社員時代、アイディアなんて出てこなければいいのに、心なんてなければいいのに、自分らしさなんて全部無くなれば、この不条理な社会でも笑って過ごせるだろうと本気で思っていました。
心を閉ざして、感度を下げて、ロボットの様に言いなりになって生きていく人間を育てることが、本当に「教育熱心」であるのかなと疑問に思います。
それは「子どもという、自分と人格が異なる人間に、自分の理想を押し付けている」に他ならないのではないでしょうか?
今日は教育談義があったので、ちょっぴり辛口になりました。
またゆるゆると続けます。
田中素子
生徒さん達をもっとHAPPYにする活動に使わせていただきます☆