オシャレがなんにも分からない
オシャレってなんですか?
つい最近、GUで黒くない服を買ってみた。ジャンパーと、ズボン。
ジャンパーはハリウッド大学のロゴが付いていて、えんじ色みたいな、くすんだ赤っぽいやつだ。ぼくはオシャレがなんにも分からないから、これの呼称がジャンパーで良いのかさえ曖昧だ。
ズボンは白と言うにはちょっと不純物が混じった、クリーム色みたいなやつだ。薄いように見えて、もあもあになってるから結構暖かくて重宝している。が、よく分からないまんまなんとなくで試着してなんとなくで買ってしまったから、ちょっと丈が短い。
ぼくはGUで黒くない服を買って、一丁前になったと思い込んでいる。
自分が一丁前になったことを見せびらかすためにハリウッド大学のジャンパーを羽織って出かけるのだ。もちろんぼくはハリウッド大学に行けるほど賢くない。だからこそお似合いだ。見栄っ張りですらない何か。
服だけじゃあない。
ぼくは何も分からないままなんとなくで前髪をのばし、なんとなくでセンター分けにし、なんとなくで保湿をし、なんとなくで顎ひげを剃っている。
自分がなんとなくでなんとかしようとしてるなあなあな存在なことに辟易しているが、なんとなくでもなんとかしようとしなければ何かからもこぼれ落ちそうな気がして、なんとなくのまま毎日を過ごしているのだ。(早口言葉)
こんなぼくでも周りから見れば普通なのだろうか。
最近になってようやく気づいたのだが、周りの人はぼくにあんまり興味が無い。みんな自分のことで忙しい。
ぼくは時おり、夕方のちょっと空いてる普通電車に乗ったりする。そうして向かいのオレンジ夕日を眺めていると、ふと、自分の周りの人たちがみんな、スマホを見てポチポチしていることに気づく。
その時ぼくは「ははあ、どうやらぼくはこの夕日を独り占めしているぞ」と優越感に浸ったりするのだ。そんなキョロキョロしているぼくでさえ、基本的に他人が何色の服を着てどんな靴を履いている人が多くてどんな香水をつけていて、なんてことはほとんど気にしない。
赤の他人が赤の他人のままであるのは、ぼくたちがその他人に対して真剣に取り合おうとしないからなんじゃなかろうか。
つまり何が言いたいかと言うと、ぼくは別段人に会うわけでもないのに、一体何に対してそれっぽく振る舞おうとしているのかということである。
ぼくたちがふだん服を着て生活をしているわけは、極端な言い方をすると、「周りの人をぎょっとさせないため」だろう。
ぼくにとっての、「全身真っ黒にしない」とか、「センター分けの分け目が真っ直ぐじゃなくてちょっと畝ってんじゃないか」みたいな“オシャレ”は、他人にとっては何かであることすらなく、ぼくが全身真っ黒のダークマターマンであったとて、髪の分け目がぐにゃぐにゃに波打っていたとて、それは所詮「ぎょっとしない」程度のちがいであり、ほとんど視界に入ることすらないだろう。
もちろん、パリコレに出てくるような服装までいくと話は違うのだが。あれはどちらかというと「他人をぎょっとさせる」ためのオシャレだろう。あんなまねはできない。
ふむ。とすると、自分のファッションなんかを一番気にかけているのは疑いようもなく自分ということなのか。
オシャレをするのは自分を満足させるためだということになる。なるほど、確かに。
そうなると、オシャレというものの本質がなんとなく分かってくる。
多分、すべてはぎょっとさせないためである。人と会う時も、人と会う用がない時も、自分をぎょっとさせないためにオシャレをするんだ。
一度「全身真っ黒はヤバい」という感覚が刷り込まれたら全身真っ黒にならないように気をつけ始めるのは、自分をぎょっとさせないためだ。鏡の前で「こんな変なカッコ、アカンなァ」なんて言うが、それを本当にアカンと思ってるのは、実際のところ、自分だけかもしれない。
「ぎょっとさせない」は、応用すると「安心させる」になるだろう。自分を安心させるのだ。各々が各々の価値観に基づいて。
ここら辺で、「イヤイヤ、じゃあ人に会う時はどーなのヨ。 その人のためにやってんじゃないのサ」なんて思った人もいるかもしれないが、ちょっと待っておくれ。一旦ぼくの持論を聞いてほしい。
人と会う時にオシャレするのって、別にその人のためじゃなくない?
……えらくツッコまれそうだ。
例えば恋人と会う時だったら、ほとんどの人はめいっぱいオシャレをするだろう。その時、確かに「(恋人)チャン/クンが喜ぶように……!」と思うだろうよ。でも、それは果たして本当に、「(恋人)チャン/クンのため」なのか?
では、実際に想像してみよう。あなたの恋人を脳内に思い浮かべて見てほしい。え? いない? 可哀想に。ぼくと同じじゃないか。
あなたはデートの日、自分が考える精一杯のオシャレをして待ち合わせに臨む。あなたはオシャレするために結構な早起きをして、見せたい会いたいという気持ちが先走って、相当早く待ち合わせ場所に着いているわけだ。どきどきわくわくしているということだ。
そこに恋人がやって来る。今各々でシミュレーションしているかとは思うが、その人がやって来て、あなたの……なんでもいい、服でも髪型でもネックレスでも、あなたが頑張ってキメた所を褒めてくれるとしよう。どんな風に褒めるかはそりゃあ人によるだろうし、あなたの方から恋人を褒めたっていい。各々で思い浮かべてほしい。
思い浮かべた?
さァ、どうだろう。たくさん時間かお金かをかけたところに気づいてくれて、褒めてくれて、嬉しく思うと同時に、ホッとしなかったか?
別にしなかったという人もいるだろう。それはぼくのシミュレーションに対する誘導がヘタクソだったのかもしれないし、感性の違いかもしれない。ならしょうがない。が、中にはホッとした人もいるんじゃなかろうか? 要するに「報われた」と思うわけだ。そう感じるってことはつまり、そういうことだろう。
オシャレは自分のためにやるものである。
そう考えると、「オシャレが何か分からない」というのは、案外しょうもない案件な気がしてくる。極論、オシャレとは、自分がそれで良ければそれで良いのだ。
他人が他人に下す「オシャレ」という判決は他人の評価軸で見たオシャレにすぎない。あまり気にする必要は無いのだ。
当然だが、自分の軸が狂っている場合もある。そんな時は逆に他人をぎょっとさせるかもしれない。そして、自分の軸を信じなかったり、自分の軸に興味がなかったり、そもそも自分の軸がなかったりすると、今のぼくみたいなそれなりの人間になってしまうということもあるだろう。
しかし、それが悪いという話ではないのだ。無難なことは個性ではないかもしれないが、性質ではある。
ぼくは当分この感じだろう。全身真っ黒になってしまうとぼく自身がぎょっとしてしまうから、これからもハーバード大学のジャンパーを羽織ったり、丈の足りない白ズボンをはいたりしながら、もうちょっと冒険してみようかなあなんて言って、腕を出したり引っ込めたりするのだ。
もしかしたら今日この電車で可愛い女の子と運命の出会いとやらをしてしまうのかもなあなんてことを考えながら、髪の分け目をいじくってみる。
このくらいの意識の低い、理想もない、鏡もちゃんと見ないようなぼくの行為でさえ、これからはちゃんとオシャレしている、と呼んでやろうと思う。
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