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生きることと死ぬこと〜リハビリの現場から〜

私の運営するThe Arthコミュニティで共通のテーマで記事を書くことになりました。テーマは「死生観」。

私は理学療法士として働き初めて7年になります。より良く生きようとリハビリを頑張る患者さんと、その最後の時を側で見続けてきた雑感を書きます。


リハビリテーションとは何か?

リハビリテーションとは、教科書的には「病気や外傷が原因で心・身の機能と構造の障害と生活上の支障が生じたときに、個人とその人が生活する環境を対象に、多数専門職種が連携して問題の解決を支援する総合的アプローチの総体」とされています。

難しいことはさておき、私は、単純明快に「その人のその人らしさを充分に引き出したい」といつも思ってリハビリに取り組んでいます。実際、物理的にできないことがあっても、それを乗り越えて自身の人生をより輝かせる方々を沢山見てきました。

病気を発症したことによる身体機能の障害などで、体だけでなく、精神・心の面でも以前のその人とは違うようになってしまっているかもしれません。しかし、私たちは関わりの中で、変わらず残存する「その人らしさ」を見つけるように努力し、その部分がより人生で輝くように支援を行います。

言わば「生」の部分にフォーカスしてリハビリを行うのです。


生が本当に輝くときは死を意識したとき

私たちは、パーキンソン病やALS、脊髄小脳変性症など進行性の疾患がある方々のリハビリをすることもあります。

もちろん、リハビリ職のアプローチで進行を止めることはできませんし、長い関わりの中で徐々に重症化していく場合も多々あります。そんな時、私は辛い気持ちになりますし、自分の無力さを痛感し、あれやこれやと試してみても、結局は気持ちに寄り添うことしかできません。専門職と言いつつ、最低限のリハビリを行いながらも、最終的にはこんなことしかできないのです。

資格なんてハリボテも良いところです。大した意味などありません。


私が担当させて頂いた方の中には、病気が徐々に進行していることを自覚しながらも、家族(家計を支え、家庭における父親としての責任を果たすため)のために会社に出勤し、できるだけ長い期間今までと同じように働き続けることを選択する方もいます。酷く疲れが出てしまうため、帰ってきたら当然ボロボロのクタクタになります。

それでも毎日体を引きずって通勤されます。

私はその方に関わらさせて頂く中で、「執念」に近いものを感じました。言ってみれば、それは、「自分らしく生きるための執念」ではないでしょうか。

まさしく、この「自分らしく生きるための執念」が発露される瞬間に立ち会い、私は表面的なものではない、リハビリテーションの真の姿を初めてこの目で見た気がしました。


一方で、「早くお迎えが来て欲しい」、「死にたい」と口にされる進行性の疾患ではない、高齢者の方々も沢山いらっしゃいます。

詳しく聞いてみると、

・減り続ける年金受給額

・終わりの見えない人生

・数年先の健康への不安

・家族に自分のことで手を煩わせたくない

そんなことからそう思う方も多いようです。


人は「死」を意識し始めたときから「生」を強く意識するようになります。

平均寿命も大きく伸びた昨今、もちろん私も含め、「生の間延び」とも言える現象が起きているような気がしてなりません。何となく、特に目的もなく長い人生を過ごしてしいがちではないかと思うのです。


昔は周りの人が亡くなり、最後を看取る経験をすることが多かった、という話を患者さんから聞いたこともあります。現在、実際にそんな経験をする機会は少ないかもしれません。

リハビリテーションの現場を経験していて心から感じることは、当たり前過ぎて言うまでもないかもしれませんが、いつでも人は”一生懸命生きるべきだ”ということです。

一生懸命という言葉は、「一生を懸命(命懸け)に生きること」という意味です。

そう言われると、なんだか無理やり頑張って、毎日身が千切れるくらいに努力して生きなければならない、と思ってしまいがちですが、私はそこまでは思いません。


現代は、「一生懸命生きること=常に身が千切れるほどに頑張る」という社会ではない

偉大な先代の方々が築きあげてきた大きな恩恵を受け、私たちは、大変幸運なことに昔よりも長く生きることができる社会に生まれました。

身が千切れるほどに頑張る時期もあっても良いと思いますが、それだけでは長い人生を生きる途中できっと疲れて息切れしてしまうでしょう。

逆に長い目で見るとしんどくなってしまい、生を輝かせることができないかもしれません。


短距離走者はいかに早く走り抜けるかだけを考えますが、マラソンランナーはペース配分を大切にします。マラソンでは、ゆっくり走って体力を温存しておく時期も必要なのです。


私は家族や深い繋がりのある仲間と一緒にいるときに、”今は体力を温存する時間だ”と感じます。

人生には、「猛烈に走り出すための休憩」も必要だと思うのです。それが現代における”一生懸命生きること”の鍵を握るのだと思います。


私は、今日は土曜日で本業の仕事が休みです。

朝の4時から起き、これを書き、自身の夢に向かって色々と調べ物をして、コツコツと1日1歩だけでも前に進もうと思って実行しています。これは努力でも何でもなく、せっかくの休日のお昼の時間を家族と過ごし、子供達の笑顔を少しでも見たいからです。

いわば”休むために”自分なりに一生懸命頑張っているつもりです。


周りの人も、もちろん自分も大切に。休憩も努力も、奮起も怠け心も、自分との戦いも大切に。


私はそれが現代における”一生懸命生きること”であり、”その人らしく生きること”なのだろうと思っています。



*The Arthコミュニティの皆さんも同じテーマで記事を書いています。チェケラして下さい!⇩

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自身の経験をまとめています。良ければこちらもどうぞ。


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